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涙なくしては読めない。遺伝病当事者の声なき声を聞け!!  衝撃作『命を選ぶ』。

涙なくしては読めない。遺伝病当事者の声なき声を聞け!! 衝撃作『命を選ぶ』。

「寄り添う」だけでは見えない現実を描いたノンフィクション

インタビュー

きっかけは、偶然だった。私は下山進さんの『2050年のメディア』を読み、メディアの未来をめぐる鋭い洞察に引き込まれた。そんな折、下山さんが『命を選ぶ 遺伝病の運命に抗ったある女性の物語』(祥伝社)を出版した。

命と引き換えに視力を失う残酷な遺伝病「網膜芽細胞腫(もうまくがさいぼうしゅ)」。苦悩の連鎖を断つ現在の唯一の方法は「着床前診断」だが、日本では厳しく規制されている。 そこから日本でその扉を開くことになった一人の女性の遺伝病当事者と知り合い、遺伝病当事者の他にも障害者団体・産婦人科医・小児科医ら多方面への取材を重ね、ノンフィクションを上梓したという。

読み始めると、第8章「慟哭のアンケート」で涙が止まらなくなった。紙面から立ち上がってくる当事者たちの声は、あまりにも切実なものだった。 〈治療は生まれたばかりの最愛の子供の「命」と引き換えに、「眼球」や「視力」を奪う判断を迫られます〉 〈もし着床前診断ができなければ、私たちは子供を諦めなければいけないのでしょうか? それとも、視覚障害になることを覚悟で賭けのような出産をしなければいけないのでしょうか?〉(同書より)

いまや10人に一人が体外受精で生まれる時代。その体外受精でできた胚の遺伝子を調べて、疾患胚を排除し、健康な胚のみを、子宮に戻すのが、「着床前診断」だが、なぜ外国では自由にできるこの医療技術が日本では厳しく規制されているのか?

今回の特集記事では、flier編集部の松尾が本書を読み、下山さんのインタビューをする中で感じた驚きや発見を綴っていきたい。

ライター・松尾美里

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「出生前診断=優生思想」。背後にある「完全に無視されてきた声」

医療の進歩で技術的には着床前診断が可能になったのに、日本では厳しい規制下にある。私はこの事実に驚いた。しかも、遺伝病当事者の方が抱える問題を知らずにいた。下山さんへのインタビューの冒頭で、そう率直に伝えたところ、下山さんは間髪入れずこう言った。

「知られていないことがまさに大きな問題なんです。野田秀樹さん率いるNODA・MAPの舞台『華氏マイナス320°』が話題になっています。実際に劇場へ足を運ぶと、その内容は遺伝病と出生前診断を扱うものでした。お芝居としては面白いのですが、訴えかけるテーマは、「遺伝病における出生前診断は、遺伝病の人たちを世の中から根絶やしにしようとする優生思想だ」ということだったのです。

『出生前診断=優生思想』。1970年代からメディアで繰り返されてきた、こうした言語空間はとても強固なもので、野田さんの芝居もその世界観の中でつくられていました」

しかし、その世界観の中で、完全に無視されてきた世界があった。それが、遺伝病の当事者たちの声である。子供を作りたいけれど、自分のような辛い思いをさせたくない、次代に受け継がせたくない――。こうした声は一切報じられてこなかった。

「2004年、日本産科婦人科学会の公開倫理委員会で、着床前診断の規制は固まっていきました。そこでは筋強直性ジストロフィーを患う女性が自らの体験を語り、涙ながらに理解を求めたが、その発言を報じたメディアは一社もなかったのです」

下山さんは、ノンフィクション『命を選ぶ』の中で、なぜ遺伝病の当事者たちが「着床前診断」を受けたいと望んできたのか、その声がなぜそれまでメディアで報じられてこなかったのか、本書でその背景を含めて明らかにしていこうとする。

「寄り添う」だけでは見えてこない事実がある

なぜ、この問題は「ないもの」とされてきたのだろうか。

「戦後、1996年まで続いた優生保護法のもとで、遺伝病や障害を理由とした強制不妊手術が行われてきました。その記憶は、現在もなお社会に影響を与えています。1970年代には、障害者運動団体である『青い芝の会』が生まれ、この理不尽に強烈な異をとなえ、運動を展開しました。優生保護法の廃止を迫るとともに、公による出生前診断に反対する運動です。その思想は、やがてメディアや倫理学者に大きな影響を与え、『出生前診断=優生思想』という強固な枠組みを形成していきました」

だが、時代とともに社会は変わっていく。優生保護法は1996年に「母体保護法」に変更されたことで実質的になくなったため、国家の出生への介入は行われることはなくなった。このころ、英国で生まれたのが、疾患胚を排除することで、遺伝病を次代に受け継がせない「着床前診断」という医療技術だった。アメリカやイギリスでは、着床前診断は2000年代にはごく普通に行われるようになった。にもかかわらず、日本では「成人に達するまでに死にいたる」ような遺伝病でなくては認められないという規制が固まる。下山さんはこう語る。

「障がい者に寄り添うべきだ。命を選別してはいけない。差別を許してはいけないーー。こうした声はいずれも正論ですが、『寄り添う』だけでは見えてこない事実もあります。だからこそ、なぜ日本で着床前診断にこれほど厳しい規制が課されたのかを掘り起こさなくてはいけないと思いました」

実名で理不尽を問う、「着床前診断を認めてほしい」という渾身の申請

なぜ、最近までこの問題に楔を打つ人はいなかったのだろうか。私は素朴な疑問を下山さんにぶつけた。

「楔を打ったのは、自身も網膜芽細胞腫のサバイバーである野口麻衣子さんが、我が子とともに顔と名前をさらして、その理不尽を世に問うたことです」

2016年頃のことだ。野口さんは第2子がそれを遺伝で受け継いだことから、第3子には着床前診断によって遺伝病を受け継がせないようにしたいと考えた。自然妊娠だと約50%の確率で網膜芽細胞腫を発症する子供が生まれる。着床前診断でそうした胚を排除すれば、健康な子供が生まれるというロジックだ。ところが、5つの大きな病院に問い合わせても、「網膜芽細胞腫は生命予後に関係がないので難しいと思う」という回答だったという。

野口さんは、同じ境遇にあった女性とともに患者会を設立した。日本産科婦人科学会に着床前診断を認めてほしいという渾身の申請をしたが、最初は却下されてしまう。

下山さんは、着床前診断を認めるよう求めた当事者だけでなく、反対する立場の論者にも一人ひとり丁寧に取材をしている。後者は、胚の段階での選別が「命の選別」や優生思想につながるのではないかという立場である。

「それぞれの立場に、積み重ねてきた歴史や時代背景があるわけで、それを丁寧に取材して、読者に見せることがとても大事だと思っています」

実際、私も最初のうちは、なぜ、こんなにも過酷で切実な環境にいる人たちに、「着床前診断」を認めないのか、という疑問を持って読み進めていたのだが、反対派の人たちの声を聞くと、また違った印象を持つようになった。たとえば、反対運動を1990年代から続けてきた米津知子さんについて下山さんはこんなふうに書いている。米津さんは脚に障害がある。

〈障害者である自分は、出生前診断に対して、「なぜ生まれる前に障害のあるなしで差別するのだ」と怒っている。が、女性である自分は、「それでも産むか産まないのかを決めるのは女性なのだ」と思う。それはいつまでたってもひっぱりあって、自分は千切れそうだ、そう米津は感じている〉

当事者と障害者の架け橋になった一実ちゃん

物語には野口さん一家の他にもうひとつ、ダウン症の女の子「かずちゃん」を抱えた篠岡(ささおか)家の20年が描かれている。この「かずちゃん」の20年の生涯が実は大きな意味を持つことが読んでいくとわかる。

99年に神奈川県立こども医療センターで生まれた「かずちゃん」は重度のダウン症だった。しかし、1976年に「青い芝の会」の抗議運動によって当時の県知事が「神奈川県下の公立病院では一切の出生前診断をしない」と覚書を交わしたことから、担当した産婦人科医の山中美智子医師は、羊水検査をすることができなかった。母親の薫さんは、生まれてからわが子が重度のダウン症ということがわかり、おおきなショックを受ける。

そしてこの山中美智子医師が、実は、後の「着床前診断」の規制緩和で重要な役割を果たすことになるのだ。

下山さんは、山中医師に取材をした際に、退職の講演のスライドの最後に、ちらりと、思い出深い出産として「十二指腸閉鎖 21トリソミー」という表記があったのをめざとくみつけて、その名前も分からない子の名前も分からない母親に手紙を書いて山中医師に託したのだという。

「今から考えると、よく山中先生はその手紙を篠岡薫さんに渡してくれたと思います」

その手紙の一節に下山さんはこう書いたそうだ。

〈私は、この本で、「生命倫理と技術の相剋」の歴史を書こうと思っていましたが、決して交わらないと思われた「相剋」だけではなく、お嬢様のお話は、両者の「架け橋」となるような話なのではないか、と思ったのです〉

「決して交わらないと思われたものとの間に橋が架かることがある」。この言葉は、私に静かな希望を与えてくれた。対立しているように見える立場の間にも、時間をかけて変化や接点が生まれていく。

本書『命を選ぶ』を読み終えると、世界の見え方は少し変わるはずである。少なくとも、私にとってはそうだった。その変化こそが、この本の価値なのだと思う。

命を選ぶ 遺伝病の運命に抗ったある女性の物語 (単行本)
命を選ぶ 遺伝病の運命に抗ったある女性の物語 (単行本)
下山進
祥伝社
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著者
下山進
出版社
祥伝社
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下山進(しもやま すすむ)

ノンフィクション作家。『アルツハイマー征服』(2023年 角川文庫)を取材するなかで、遺伝病の連鎖を断つ現在の唯一の手段である「着床前診断」が日本では厳しく規制されていることを知った。そこから日本でその扉をあけることになった一人の女性と知り合い、遺伝病当事者・障害者団体・産婦人科医・小児科医ら多方面への取材を重ね、本書をものした。1993年コロンビア大学ジャーナリズムスクール国際報道上級課程修了。2019年3月文藝春秋を退社し独立。著書に、『2050年のメディア』(2023年 文春文庫)、『がん征服』(2024年 新潮社)、『勝負の分かれ目』(2002年 角川文庫)、『持続可能なメディア』(2025年 朝日新書)など。AERAで2ページのコラムを連載中。元慶應義塾大学総合政策学部特別招聘教授、上智大学新聞学科非常勤講師。現聖心女子大学現代教養学部、立教大学社会学部非常勤講師。

文責:松尾美里(2026/05/18)