
フライヤーのコミュニティflier book laboの目玉は、オンライン上で書籍について語り合う読書ワークショップ「LIVE」です。第22弾のゲストスピーカーは、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授 柳瀬博一さんでした。 私たちが生きている世界は、過去から積み重なった幾層もの歴史的、地理的なレイヤーから成り、レイヤーによって捉えることであらゆるものの成り立ちが理解できるといいます。そんな柳瀬さんがLIVEのために選んだ一冊は、『認知症世界の歩き方』(ライツ社)。ご経験をもとに生まれた「レイヤー思考」についてインタビューでお聞きしました。
『認知症世界の歩き方』は、認知症に限らず、まさに人間の認知について書かれていることから、この本を取り上げさせていただきました。認知とは何かを理解するのに最適な一冊です。
最近、VRやネット上の仮想空間「メタバース」が話題になっていますが、私たちはもともと誰もが「己のメタバース」の中に暮らしていると言えます。全員が自分の認知の中に生きているのです。
その意味を知るには、自己と他人の認知について理解を深める必要があるのですが、『認知症世界の歩き方』は人間がどのように世界を認知しているのかを詳しく解説してくれています。


今のウクライナの戦争についても、認知の観点から言えることがあります。
今、争いが起きているリアルな戦場があると同時に、かつてないほどネット空間が戦場になっています。ネット空間でさまざまな情報が飛び交い、プレゼンテーション次第で敵が増えたり味方が増えたりします。あるいは、どのような情報発信をするか、フェイクを入れるかによって人が騙されたり、騙されなかったり、あるいは騙そうと思って失敗したりといったことが、毎日繰り広げられています。
すなわち、物理的空間に対し、メディア的デジタル空間はすべてメタバースと言えるわけですが、私たちにとってそもそも人間の認知とは何だろうかと、きちんと実感として知っておかないと、これからの時代を生きていくうえで不都合なことが多くあります。いえ、むしろすでにそういう時代を迎えています。
そんな時代を生き抜くうえで、AR(拡張現実)やVRなどにまったく触れられていないこの『認知症世界の歩き方』が、一般的なメタバース解説書よりも断然、メタバースや人の認知の本質を突いています。
『認知症世界の歩き方』は、私が実践している、レイヤー(層)に基づいた考え方「レイヤー思考」を極めて明確に示してくれています。
「レイヤー思考」とは何かを説明しますと、私たちが生きている場所、生まれた場所などはすべて、地理的にも歴史的にもさまざまなレイヤーの上に乗っかっています。レイヤーの上にレイヤーが何層も重なって成り立っています。
今ある都市や文明の形がなぜそうなっているのか、その変遷を知り、そしてこれからどうなっていくだろうと未来を知ろうとするために、一番深いレイヤーから順番を間違えず、客観的に解きほぐしていきます。
レイヤー思考は地層の研究と同様、どの場所、つまり「地理」=空間の軸に、どの順番、つまり「歴史」=時間軸で成り立っているかを探ります。この2軸を介してさまざまな場所のレイヤーを掘り下げ、追っかけてみる。
そうすると、なぜこの場所でこのようなことが起きているのか、私たちの文化がどうしてこうなっているのか、この町がどうして栄えているのか、あるいはなぜうまくいっていないのか――。そうしたことが究極的には分かります。
このことは前著『国道16号線―「日本」を創った道―』において、詳しく書いています。
この「レイヤー思考」の考え方自体は、私が発明したわけではありません。学者ジャレド・ダイアモンドが著書『銃・病原菌・鉄』で示した思考形態に由来しています。
進化生物学者であり、生物地理学者でもあるなど非常に多方面で活躍するダイアモンドは、ニューギニアの部族と話した際にかなりの知性を持った人物がいたことに驚いたと記しています。しかし、ニューギニアの部族は、ホモサピエンスの原始的な初期文明の頃とさほど変わらない生活をしています。その様子は、ダイアモンドのような学者が暮らしている洗練された世界とは著しく離れており、いわば遅れているように見えます。
かつては、欧米の人たちが優秀で、昔ながらの生活をしている部族は優秀ではなく、人間の質が違うと言われていた時代もありました。しかし現在では、人間のバリエーションはDNAレベルでも誤差程度であり、大差ないことが分かっています。
そこで、ダイアモンドは歴史を深く掘り下げ、地形、地理の構造に着目していくことになります。
人類発祥の地はアフリカですが、ある時点から文明が停滞してしまいます。一方、文明が発達したのは圧倒的に欧州とアジアでした。欧州とアジアには、文明を駆動するために最も重要な「灌漑をして穀類を育てる」という条件が揃っていたためです。具体的には中近東を中心とした小麦の文明と、中国・インドの米の文明です。
その灌漑が発達したのは、水量豊かな大河の存在と、東西に長いユーラシア大陸の形がポイントだったのです。東西に長いことにより、同じ緯度で似た自然条件のため、農業の文明を「横展開」できる条件が整っていたわけです。
一方、アフリカは南北に長い大陸です。アフリカ北部の地中海沿岸は、小麦の農業が発達し、地中海文明の一部であったと言えます。半面、「サブサハラ」と呼ばれるサハラ砂漠以南は緯度が異なり、気候も気温も生態系も変わります。同じ穀類を大量に伝播するのに適していません。
話をニューギニアに戻すと、ニューギニアは5万年前、地球上で最も文明が発達していました。世界で初めて大海原へと漕ぎ出し、非常に高度な航海術を持っていたためです。当時の欧州人よりもはるかに高い文明を誇っていました。
ではその後、何が歴史の分岐点だったかというと、地理的要因です。ニューギニアやインドネシアは火山性で平地がほとんどありません。平地だった場所でもマラリアをはじめとした疾病が多く、灌漑文明に向いていませんでした。地理的要因により、文明が変わってしまった好例です。
これが『銃・病原菌・鉄』の冒頭でダイアモンドが語っていたことです。この考え方は、さまざまな分野に当てはめることができます。まさにレイヤーなんですね。
私を「レイヤー思考」の着想へと導いた師匠は2人います。
一人は慶應大学の学生時代に出会い、今も共にNPOで活動している進化生物学者の岸由二さんです。リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』をはじめ、進化生物学において最も重要な書を日本へ紹介した第一人者です。1970〜80年代当時、数少ない若手の開明派の学者でした。
米国や英国の最先端でオーソドックスな学説をいちはやく日本へ輸入し、ご自身もハゼの研究でまさにその理論を実践していました。


彼の講義をたまたま選択したことが、現在提唱している「レイヤー思考」の源流となりました。岸先生との三浦半島での保全活動を通じ、「すべての土地は河川流域で構造的に区切ることができる。必ず雨が降って川ができ、最終的に海へ流れる。すべての土地は一本ではなく必ずどこかの流域に属し、流域が地理的要因のプレート上の一つの単位となる」と1980年代に学びました。
もう1人の師匠は養老孟司さんです。1990年代から30年ほどお付き合いがあります。彼の著書『唯脳論』はまさに「認知症の世界」とぴったり呼応する内容です。
人間は、自分の感覚系で得た情報の中、脳の中で暮らしている「唯脳」の生き物であると説いています。私たちが見ている自分の「唯脳」の世界、それが全てだと思ってしまうと、あなたと私は同じものを見ているつもりが、全然違うものを見ている可能性があるという考え方です。
そのわたしとあなたの間にある壁を何というか、それが『バカの壁』なんですね。
要約リンク:

「レイヤー思考」は、そうした日本トップクラスの学者と早めに出会えた幸運のうえに培われた考え方といえます。
自己と他人の認知の違いを知っておくことがますます重要な現代においては、「レイヤー思考」のように複層的に考える習慣がきっと役に立つことでしょう。


柳瀬博一(ヤナセ ヒロイチ)
1964年静岡県生まれ。東京工業大学 リベラルアーツ研究教育院 教授。慶應義塾大学経済学部卒業後、日経マグロウヒル社(現・日経BP社)に入社。雑誌「日経ビジネス」の記者、専門誌の編集や新媒体開発などに携わった後、出版局にて『小倉昌男 経営学』『矢沢永吉 アー・ユー・ハッピー?』『養老孟司 デジタル昆虫図鑑』『赤瀬川原平&山下裕二 日本美術応援団』『社長失格』『流行人類学クロニクル』など書籍の編集を行う。2018年4月より現職。「文化系トークラジオ Life」「柳瀬博一Terminal」「Biz&Tech Terminal」「渋谷の柳瀬博一研究室」などラジオの出演、パーソナリティも。プライベートでは、三浦半島小網代の谷の保全を行うNPO法人小網代野外活動調整会議の理事。山の中でササ刈りをしたり、土木作業を行ったり、カニの数を数えたり、ムシの写真を撮っている。著書に『国道16号線 日本を創った道』(新潮社)、共著に『インターネットが普及したら、ぼくたちが原始人に戻っちゃったわけ』(小林弘人と共著 晶文社)、『「奇跡の自然」の守りかた』(岸由二と共著 ちくまプリマー新書)、『混ぜる教育』(崎谷実穂と共著 日経 BP社)。