半径3メートルの人に愛をケチっていないか?(健康社会学者・河合薫)
「学び直し」戦略を成功させる秘訣

全日本空輸のキャビンアテンダントを経て、気象予報士としてニュースステーションなどに出演し、現在は健康社会学者として活躍する河合薫さん。人と環境の関わり方に注目し、幸福に生きるための方法を研究し、書籍の執筆や講演活動を行っています。
新著『THE HOPE 50歳はどこへ消えた?』(プレジデント社)は、「45歳定年制」や50代の希望退職者を募る動きが加速するなか、組織で仕事に邁進してきた50代前後の方々のリアルが胸に迫る一冊です。これからの時代に必要な「半径3メートルの幸福論」とは何なのでしょうか?
コロナで気づいた「成長を止めようとしていた自分」
── 本書を執筆しようと思ったきっかけは何でしたか。
新型コロナウイルスの流行によって、私自身が「このままじゃヤバい」と危機に直面したことが影響しています。これまで一つ一つの仕事をしっかり積み上げてきましたが、一気に講演活動やイベントがなくなり、衝撃を受けました。
40歳を過ぎた頃の私は、現状に安住して死んだ目をしたような人にはなりたくないと思っていました。ところが、いざ自分が50歳を超えると、「私もフェードアウトモードに入ろうか」などと考え、いつのまにか成長を止めようとしていた。目の前のことを一つ一つ完全燃焼することでしか未来はない、とそれまできちんと生きてきたのに、あちら側の世界の人間になっていたんです。
コロナで生活が大きく変わったことで、焦りとともに「なんとかしなくては」という思いに火がつきました。また当時は、自著『定年後からの孤独入門』に関するインタビュー依頼が増え、大きな反響を得ていたことから、定年後に不安や焦りを抱いている方が多いと感じていた時期でした。サラリーマンの生活は必ず終わりを告げ、肩書も無意味になる。そんなときにどう生きていけばいいのか? 科学的なエビデンスに基づいた「幸せになるための方法」を伝えることで、迷いや恐れを抱く方にエールをおくりたい。そんな思いから、50歳からの人生生き直し戦略として『THE HOPE 50歳はどこへ消えた?』の執筆に至りました。



── 本書を通じて一番伝えたいメッセージは何でしたか。
これまでの著作でも、一貫して人の心と心の距離感を縮めることの大切さを伝えてきました。どれほど仕事で高い成果を出し、高い地位を築いていても、家族や職場、地域など自分を取り囲む半径3mの人たちと良い関係が築けていないと、人は幸せを感じることができません。この重要性を、改めて「ゆるいつながり」という言葉で伝えたかったという思いがあります。
本書では、「幸せへの6つの力」として、自己受容を発端に、人格的成長、自律性、人生の目的、環境制御力、積極的な他者関係があると書きました。なかでも特に大切だと感じているのは「人格的成長」です。このままで終われえるか! 終わりたくない! と怒り、自分で限界さえ決めなければ、可能性は無限大に広がります。自分を信じろ!と、同世代にエールを送りたかった。
半径3メートルの人に愛をケチっていないか?
── 幸せへの6つの力は30代の私でも今から意識しなくてはと思える内容でした。いずれ50歳を迎える読者もふくめ、人生の目的とは何かと迷う方に対して、河合さんはどんなアドバイスをしますか。
人生の目的は何かと聞かれて、即答できる人は滅多にいません。なので、迷っている人には、まずは「大丈夫!」と伝えたいですね。
『夜と霧』で有名な精神科医フランクルは、こんな金言を残しています。「人生に何かを期待するのではなく、人生があなたに期待しているのだ」と。迷っているときって、会社や社会という大きな枠組みの中で、自分の役割が曖昧になっている時だと思うんですね。自分の存在意義が感じられないとか、働く意味や生きている意味がわからないとか。そういう時は、「会社の中の私」ではなく、「私を取り囲む半径3メートルの中の私」としての役割を考えてみてはどうでしょうか。
「幸福の方程式」をつきとめようとしたハーバード・メディカル・スクールの研究「グラント・スタディ」では、自分の生活世界の人々との関係性が幸せのカギを握っていることが明らかになっています。いい人間関係を築くには、愛をケチらないことです。周りの人に愛をケチらなければ、いつしか自分の道のやるべきこと、やりたいこと、進む道が見えてきます。


特別なことをする必要はないのです。だって、誰しもが人を思いやる気持ちをもっているのですから。ただ、余裕がないと、つい意地悪なことをいったり不機嫌に振る舞ったりしてしまう。そんなときこそ、「愛をケチるな!」と自分に言ってください。おばあさんが道に迷っていたら、「お手伝いしましょうか?」と声をかければいい。近所の子供が新しい靴で走っていたら、「かっこいいね!」と声をかければいい。そういった小さな行動をルーティンにすると、不思議と「幸せへの力」が引き出されていくんです。
人生は螺旋階段のようなもの。「大丈夫」と思ったらまた不安になる……というのを繰り返していく。同じところをグルグルと回っているように見えますが、迷いながらも少しずつ前に進んでいれば、あるとき5年前とは明らかに違う景色が見えるようになっているはずです。

「学び直し」の効果を出すためにトップがやるべきたった1つのこと
── 日本の企業で「学び直し(リスキリング)」や「学びほぐし(アンラーニング)」がますます注目されており、「幸せへの6つの力」との関連性を感じました。企業は学び直しを機能させるために、どういったサポートをするとよいのでしょうか。
そもそも学び直しやリカレント教育の意味について考えてみましょう。これは、社会人になってからも「教育」と「就労」のサイクルを繰り返す教育制度を意味します。学ぶ側にとっては新たなスキルを身につけられます。また企業側にとっても、経験を積んだ人材が学び直すことで、イノベーションが生まれやすいというメリットがあります。
私は50歳以上の学びは、勉強ではなく学問にすべきと考えています。勉強と学問は全く違うんです。料理にたとえると、勉強は誰かが育てた野菜をお皿に盛りつけて、サラダとして出すようなもの。これに対して学問は、どんな土地にどんな種を蒔くかを考えるところから始まります。台風や干ばつが起きても枯れないように野菜を育てて、収穫する。そして、それを「食べてよかった!」と思ってもらえるようなサラダにして振る舞うんです。誰かのために役立つアウトプットをすることは極めて重要です。
多種多様な経験をした50代であれば、学問をすべきだし、誰もが例外なく、学びのプロセスを設計する力を持っています。具体的に動きさえすれば、学びのスイッチはオンになります。
── 「学び直し」の大事な前提条件ですね。
はい。学び直しを企業の戦略として進めていくためには、学びをアウトプットする機会が欠かせないわけです。にもかかわらず、日本の企業では、従業員に能力を発揮する機会を充分に提供できていないケースが多いように思います。
大事なのは、トップ自らが学んでいこうという覚悟をもてるかどうかです。学び直しとは、経営層と従業員が互いを理解し合う機会があってはじめて、真の効果が出るものです。トップにその姿勢がなければ、本人は学びを会社に還元できない。挙句にはセカンドキャリアとして自分のことを認めてくれる他の会社に移っていってしまいます。
「へなちょこでも生きられる」
── 河合さんは健康社会学の研究をもとに、働き方、ウェルビーイングなど、人が幸せに生きるための道筋を提言されています。こうしたテーマの研究や執筆活動を続けている原動力は何ですか。
その原点は健康社会学の研究に進む前にあります。最初のキャリアはキャビンアテンダントでしたが、「専門的なテーマについて自分の言葉で表現したい」とCAをやめ、次の道を模索していました。では何について語れるのか? そう考えていたときに気象予報士という資格ができると知りました。それを取得すれば、子どもの頃アメリカのアラバマ州に住んでいたときに憧れていたウェザーキャスターの仕事ができる。自分の言葉で天気の予報を伝えられたらと、気象予報士の試験を受け、天気キャスターの道を歩んできました。
天気が予報できると、新しい靴を濡らさなくなった。些細なことですが、それがすごく楽しくて。「みんな、こんないいことあるんだよ!」と天気にのめり込みました。しかも、天気次第で気分もかわる。雨が降るとブルーになるし、晴れるとそれだけで気分がいい。こうしたことへの興味が高じて、天気と環境、人の心との関係を研究する生気象学を独学することに。やがて、天気以外にも人の心に影響を与える要因が知りたい、自分の言葉を持ちたいと思うようになり、大学院へ進学。健康社会学の世界へ進みました。健康社会学は、人と環境との関わり方にスポットをあて、人の幸福感や生きる力を研究する学問です。「人は環境で作られ、人は環境を変えることもできる」ことを、健康社会学は前提にしています。
たとえば、本書でも紹介したSOC(Sense of Coherence=首尾一貫感覚)もその1つ。SOCとは一言でいえば、「世界は最終的に微笑んでくれるという確信」です。
「自立」とか「自己責任」ばかりが叫ばれる世の中ですが、どんなへなちょこでも、半径3メートル世界の人たちといい関係を築ければ強くなれる。私もへなちょこの1人なので、SOCのような難しい理論を、科学的なエビデンスを示しながら、一般の方にわかりやすい言葉で発信していきたい。お天気お姉さん時代から、「みんな、こんないいことあるんだよ!」という思いが一貫してあるんです。
職場の人間関係や介護問題、定年の問題など、世の中で置き去りにされている立場にある人にこそ伝えたいし、声にならない悲鳴を取り上げることで、温かい半径3メートル世界があちこちにできれば、もうちょっとだけ生きやすい社会になるのではないでしょうか。
「難しいことをわかりやすく」、キャリアに一番影響を与えた本
── 河合さんがこれまで読まれた本を振り返ってみて、ご自身のキャリアに影響を与えた本を紹介していただけますか。
小学生向けのお天気図鑑です。小学生の頃アメリカに住んでいた関係で、高校の現代国語では、日本語の長文を正確に理解するのが難しい場面がありました。一方で、天気の世界に入ったものの、空を4年間も飛んでいたのに、「なぜ、地上が雨でも、離陸後3分もすれば青空になるのか?」「なぜ、赤道付近で飛行機は揺れるのか?」がわからなかった。そこで小学生もわかるお天気図鑑で勉強を始め、手書きの「穴あけ問題集」をつくって自学自習をしました。天気の図鑑って、難しいことを子どもでもわかるように説明しているんです。子供向けの図鑑が理解できれば、難しい気象学の本や物理式も理解できる。気象予報士の試験も、子供向けの図鑑がきちんと理解できれば合格できます。
気象予報士として「ニュースステーション」に出演することになったときも、とにかく「視聴者にわかりやすく伝えよう」と心がけました。専門的な内容を、簡単な言葉で伝える。この大切さを教えてくれた天気図鑑は、本の執筆はもちろん、自分自身のキャリア自体に大きな影響を及ぼしてきているように思います。
── 河合さんはビジネスパーソンへのインタビュー時に「あなたにとっての仕事とは何か」と尋ねているということでした。河合さんにとっての仕事とは何ですか。
仕事は「背中にいれたものさし」のようなものですね(笑)。背筋をまっすぐ伸ばすように強制してくれるものさしがなかったら、私はだらだら過ごしていたような気がします。ものさしがあるから、自身と向き合えたし、周囲の人たちに貢献しようという気持ちが湧いてきた。ものさしがあるから、学び続けることができたし、愛をケチらずにすみました!これからも学びつづけなきゃ、って思っています。
コロナの時代は自分の原点に立ち返るきっかけにもなりました。今後も目の前の仕事を一つ一つきちんきちんとやっていく。それを継続していくことで新しいものや「これをやりたい」というものに出会えると思っています。


河合薫(かわい かおる)
健康社会学者(Ph.D.)、気象予報士。千葉大学教育学部を卒業後、全日本空輸に入社。気象予報士としてテレビ朝日系「ニュースステーション」などに出演。2004年東京大学大学院医学系研究科修士課程修了、2007年博士課程修了。産業ストレスやキャリア発達、健康生成論の視点から調査・研究を進め、働く人々のインタビューをフィールドワークとし、その数は約900人に上る。
著書には『コロナショックと昭和おじさん社会』『他人の足を引っぱる男たち』『他人をバカにしたがる男たち』(以上、日経プレミアシリーズ)、『定年後からの孤独入門』(SB新書)などがある。