要約の達人が選ぶ、今月のイチオシ! (2020年6月号)


2020年6月、編集部のイチオシをお届けいたします。
多くの地区で緊急事態宣言が解除され始めたものの、まだまだ予断を許さない今日このごろ。これからの社会のあり方、人生の過ごし方を考えるうえでも、もっと書籍と向き合う時間を大切にしていきたいですね。



世界は複雑である――「贈与」という考え方を通して、その事実をあらためて強く実感します。
そもそも世界が複雑なのは自明です。しかし私たちは往々にして物忘れがひどく、しばしばそのことを忘れて単純化してしまいます。「AをやったらBが手に入る」「Xが起きたので原因はYに違いない」というように。
なぜそうした単純化が起きるのか。著者の近内悠太氏は、「交換」という概念が少なからず影響していると見ています。「交換」というのは、この資本主義社会の土台を築く便利なコミュニケーションスタイルですが、モノやサービスの売買という動作を通して、私たちはあまりにもその価値観に影響を受けすぎている。「これを渡せば、あれがもらえる」の果てに行き着くのは、世界の構造そのものへの単純化です。そこでは複雑に絡み合ったコンテクストが切り離され、やせ細ったテキストだけが残ってしまう。
「贈与」という所作は、見返りを求めないからこそ、受け手に主体的な想像力を要求します。贈与人の存在に気づいたとき、さらにその先にいる贈与人の姿も浮かんできて、やがてはこの世界そのものが誰かの贈与で成り立っていることに思い至る。「贈与」のコミュニケーションは、必然的にコンテクストを読むこと、世界の複雑性に気づくということに他なりません。
だからこの本は「贈与」に関する本であるがゆえに、「過度な単純化に陥らず、多様性にいかに向き合うか」を説いた本なのです。それは単純化したコミュニケーションが横行する社会において、痛烈なカウンターとして機能するでしょう。いま本書を読む意義は極めて大きいです。日常を一歩引いて見つめ直したいとき、ぜひお読みいただければと思います。



コロナウイルスの感染拡大によって、私たちの生活や考え方はどう変わったか。何より先に思い浮かぶのは、休園・休校や働き方の変化、外出自粛などではないでしょうか。家族と過ごす時間が増えたり、在宅勤務をしたりと、初めての経験づくしだった方も多いでしょう。
ですが実は、「病気を常に意識せざるをえない状況に置かれたこと」こそ、私たちにもたらされた大きな変化だったのではないかと思います。「自分も病気になるかもしれない」と常に考えながら暮らすのは、多くの人にとって初めての経験なのではないでしょうか。
そんな今こそお読みいただきたいのが、本書です。
本書では、病気と身体について、子どもでも読めるようなやわらかさで語られています。たとえば、患者がやってきたとき、医師はいかに病名を特定するのか。風邪を引いているとき、身体の中では何が起こっているのか。医師はなぜ「様子をみましょう」と言うのか。……などなど。言われてみれば、知らないことばかりではありませんか?
今しみじみと感じている健康の尊さを、いつか忘れてしまう日がくるのかもしれません。その前に、自分の身体ととことん向き合ってみてはいかがでしょうか。



「これほど心を震わせる伝記があるなんて!」
そう思わずにいられなかった一冊が、2019年度の「城山三郎賞」受賞作である『資本主義と闘った男』だ。ノーベル経済学賞に最も近い日本人といわれた経済学者・宇沢弘文さんの生き様と、「資本主義との闘い」を克明に描き切った伝記である。宇沢さんの86年間にわたる激動の生涯をたどりながら、経済学史を壮観できる約650ページの大著だ。経済学史の知識をほとんどもっていない私には難解だったものの、読後には、その苦労をはるかに上回る興奮と感動が待っていた。
1928年に生まれた宇沢さんは、学生時代から社会への関心が高く、戦争で荒廃してしまった社会の病を癒したいと考えていたそうだ。その後アメリカにわたり、経済学者として世界的に高く評価されながらも、日本に帰国。それは当時、周囲からはキャリアの放棄のように見られたという。しかし今度は、持ち前の数理経済学を武器に、地球温暖化や日本の公害問題に立ち向かっていく。
そんななかで宇沢さんが提唱したのが、あらゆるものを市場原理で捉えようとする動きに対抗した、「社会的共通資本」という概念である。他のご著書によると、この資本は、「ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的・安定的に維持することを可能にするような社会的装置」を意味するという。具体的には、森林、川、大気のような自然環境、鉄道、上下水道などの社会的インフラストラクチャー、そして教育、医療、司法といった制度資本を含む概念だ。
SDGsへの注目が高まる現在にこそ、「社会的共通資本」の思想は、ますます大事なものになっていくと考える。本書を通して、この思想が生まれるまでの長い軌跡をたどることで、私自身が、無数の「社会的共通資本」とそれを支える人たちに生かされていることを強く実感させられた。たとえば教育の分野では、「9月入学」をめぐる議論が本格化しているが、賛否を論じる前に、一社会人として、子どもたちの学びを支えてきたものは何なのかを見つめてみたいと思った。
「人間としての経済学」を打ち立てようとした宇沢さん。自由が制限された現在こそ、人間らしい生活を営むための原点を問う本書に向き合うことで、ゆたかな時間を過ごせるのではないだろうか。



「我思う、故に我あり」
この言葉は、考えているまさにこの時点で自分という存在が確かにそこにある、ということを意味している。
「考える」といっても、集中して何か崇高なことに思い巡らせることだけではない。同僚が髪を切ったことに気づいたり、部屋に置く新しいテーブルの色をどうするか迷ったり。それらの観察、行動、判断すべてが、「考える」ことだ。デカルトは、そうして自分で観察し、判断し、行動することの大切さを知っていた。
どうせ「考える」なら、良い方を適切に選択していきたい。そのためのヒントが、デカルトの代表的著作である『方法序説』にちりばめられている。
しかし、上司に小言を言われればムッとするし、犬のフンを踏んづければかなしくなるのも人間である。そういうときに論理的な思考ができなくなることも、デカルトは理解していた。だから、理性と対になる感情をコントロールするための方法を『情念論』にまとめた。
『仕事に使えるデカルト思考』は、齋藤孝先生のあたたかな口調でこの2つを読み解くだけではない。ストレスまみれの現代人、とりわけビジネスパーソンが、確かな足取りで毎日を踏みしめていくための、デカルト思考の身につけ方を伝授してくれる。
その一つが、読書だ。
デカルトは、言葉を操る能力が人間の理性にとって大事であると捉えていた。その能力を鍛えるために大きな力となる方法が、読書なのである。
読書は、その本を書いた著者との対話体験であり、先人たちの偉業を学ぶ場でもある。そして、ただ眺めるだけでなく、読んで自分が学びとったことを、メモ書きでもいいのでアウトプットしてみる。なんとそれは、自分の思考の引き出しを増やすだけでなく、ストレスマネジメント、アンガーマネジメントにも役立ってしまう。
だとすれば、読書にまつわる一連の体験は、自分の人生をコントロールするために必要な「栄養」と言えるだろう。
かつて寺山修司は、『書を捨てよ、町へ出よう』というタイトルの書物を著した。これは、豊かな読書体験を経て外を歩けば、町の、世界の姿がより深く見えるようになる、ということではないだろうか。
「考える」力を身につけることで、人びとの言葉、行動、社会の空気がまるで違ったもののように感じられる。
そこに生まれるのは、アイデアと夢の泉かもしれない。