要約の達人が選ぶ、今月のイチオシ! (2020年7月号)


新型コロナウイルスの流行を受けて、いま社会のあり方や社会に対する向き合い方が、あらためて問われています。これまで当然だと思われていた価値観が揺らいだり、新たな生活習慣に戸惑ったりする場面も増えてくるでしょう。そうしたなか、どのように自分の軸を持ち、新たな世界に直面するべきなのか。書籍と向き合う時間のなかで、考えを深めてみませんか。
2020年7月、編集部のイチオシをお届けいたします。



私たちは、性別や世代、出身地、血液型など、相手のキーワードのうちの一つを取り出して、「あなたは/彼は/彼女は○○だからね」と決めつけてしまうことがあります。当然ながらそのキーワードは、相手の一側面でしかありません。それでも、一つのキーワードを取り出すことで、相手をよりシンプルに理解できるように感じるのでしょう。それはどこか、フレームワークを使った課題解決に似ているようにも思います。
そんなことを考えていたときに出会ったのが、本書です。
本書で描かれるのは、英国の「労働階級のおっさんたち」の姿。国民投票がきっかけとなってパートナーと衝突したレイさんや、嫌がらせを受けている移民を守るために立ち上がったスティーヴさんなど、一人ひとりの生活がビビッドに描き出されています。彼らは「離脱派」「移民反対派」などとグルーピングされますが、そうしたタグとは相反するような一面も併せ持っています。
もちろん本書から、「おっさんたち」のすべてがわかるわけではありません。彼らはそれぞれに違う人間であり、本書で描き出されているのは、著者の目を通して見た姿に限定されているのですから。
映画の登場人物たちは、カメラの回っていないところでも生活を営んでいますし、映画に登場しない友人や知人もいるでしょう。そのことは理解できるのに、なぜ私たちは、誰かの一面だけにスポットライトを当てて、相手のことをすっかり理解した気持ちになってしまうのでしょうか。
小説のようにすらすらと楽しく読めて、しかも深く考えるべきテーマをくれる――そんな一冊でした。



憂鬱だ。
大学生の娘は、授業は就職に役立つことを教えてくれないし、先生の話を聞いていてもつまらない、と繰り返している。そんなに嫌ならやめればいい、と思わず口に出してしまったことがある。あきれたようにため息をつきながら、毎日つまらなさそうな顔で出勤するくらいなら、それこそ会社を辞めたら、と言われた。
憂鬱だ。
こうした話はありふれたものだろう。なぜこの人はこんなにも気だるさに支配されているのか。「不幸せ」な会社員の立場からは逃れられない、と諦めている。この状況とたたかう術などないと思っている。
マルクスは『資本論』によって、労働者が搾取されるばかりとなっている資本主義の「欺瞞」を明らかにした。だから、労働者こそがこれを知っていなくてはならない。いや、むしろ知っていなくては生き残れない。マルクスはそう考えていたように思える。
『資本論』によると、労働者もまた「商品」である。「商品」であるからには、なんらかの「価値」を生み出さなくてはならない。「人財」という言葉にこめられているのは、会社という資本に有益な価値をもたらすことを期待する空気だ(と言うと皮肉すぎるだろうか)。
『資本論』にも、「それが誰の役にも立たないのであれば、それは商品とはいえない」というようなことが書かれている。
一方で、人間までも「商品」となることの問題を『資本論』は明らかにする。
何に「価値」があるとするかは、時代の流れによって変化していく。同じ作業の繰り返しが効率的に機械へと取って代わられると、次なる人間はアイデアやクリエイティビティで勝負をしなくてはならなくなった。発想力を発揮できない、そうした仕事をしていない人は相対的に「商品価値」が低く見積もられ、生産物の質や労働時間にかかわらず、「商品」としての「値段」、つまり給与が下げられる。人の「値段」を下げて、会社の利益を担保しようとするからだ。これは、資本主義の仕組みによって巧みに「正当化」される。
資本主義というあまりに広い海のなかにいる私たち現代人は、少しずつ呼吸は苦しくなっているのに、それは我慢するしかないものだと思っている。たしかに、資本主義をやめることは困難な道のりだ。しかしそれは何も、諦めて「モダン・タイムス」的な会社基準の歯車になれ、ということではない。
ではどうすればよいのか。それを知る一歩は、『資本論』を武器とするこの本のなかにある。
「豊かな人間とは、自身が富であるような人間のことであって、富を持つ人間のことではない」(カール・マルクス)



ネガティブ・ケイパビリティという言葉をご存知だろうか。数多くの文学賞に輝いた作家であり精神科医である著者によると、これは「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」を意味するという。性急に答えを求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力。著者は日々の診療において、身の上相談を聴く場面が多い。なかには手のつけようがない悩みもあり、そのたびに、ネガティブ・ケイパビリティに幾度となく助けられてきたと語る。
スピーディーな課題解決を求められることが多い現代において、あえて答えに飛びつかず、相手や状況に寄り添い、「待つ」力だと私は解釈した。ではどうすればこの力を培い、発揮することができるのだろうか。そんなことを考えていたときに、ネガティブ・ケイパビリティが必要とされたであろう個人的な経験を思い出した。
その経験とは、以前、親の手術の付き添いをしたときのことだ。手術はうまくいき、命に別状はないとわかって安心したものの、術後の痛みがすぐにひくというわけにはいかなかった。麻酔がきれかけてきて痛みを感じている親の姿を、なすすべもなく横で見守るのは、こんなにつらいことなのか。麻酔が早く効いて痛みが和らぎますように――。そう願うしかなかった。付き添いの合間、心配してくれていた友人に現状を一言メールしたとき、こんな返事が届いた。
「痛みはとってあげられないかもしれませんが、あなたがそばにいてあげることで安心して、和らぐことがあると思います。しっかり見守ってあげてください。大丈夫、あなたにはちゃんとそれができるよ」
その言葉のおかげで、心の落ち着きを取り戻し、ベッドのそばにすわり、親が眠りにつくのを見守ることができた。あの場面で、私が友人から教わったものは、ネガティブ・ケイパビリティの大切さだったのだろう。
これを自覚してから、ネガティブ・ケイパビリティが病院の付き添いに限らず、日常のさまざまな場面で求められていることに思い至った。人間関係のわだかたまりがほぐれるのを待つ、熟慮や議論のうえでよいアイデアが降りてくるのを待つ、人が成長していくのを見守る、というように。そのうえで本書を読み返すと、医療や教育、芸術活動におけるネガティブ・ケイパビリティの発露が、少しずつ身近なものになっていった。すぐにわかりやすい答えや解決策に飛びつきたくなったときにこそ、本書『ネガティブ・ケイパビリティ』が心の拠りどころになってくれる気がする。



Q&Aがいいんです、この本。
本書の主題を簡単にまとめると、「充実した人生(=「フルライフ」)を送るには?」となるわけですが、この問いに答えるための総論(フレームワーク)はもちろんのこと、各論(Q&A)がすごく充実しています。1つの大きな問いからいくつもの小さな問いが生まれ、それらの問いに対する答えがやがて大きな問いの答えに行き着く、という構図になっているんですね。
大きな問いに大きな答えをぶつけても、「網目」が大きすぎて実用的じゃないことがほとんどです。だからこそ問いを細分化し、意味のあるサイズに仕立て直さなければならない。「どんなテーマであれ、問いを立てたのに考えが進まないのであれば、それは思考力の問題でなく、『問いが適切でない』ということにつきます」という著者の言葉は本当にそのとおりで、解像度の高い答えを得るためには、解像度の高い問いが必要なのです。
そうしたとき、本書に記されているたくさんの「Q=問い」が、大きなヒントを私たちに与えてくれます。「Q. 若者が大物感を出すには?→A. 時代を語る」、「Q. すごい人はどう計画を立てているか?→A. すごい人は、3年プランの立て方がうまい」など、それぞれの「A=答え」自体も参考になりますが、「よい問いを生み出す力」を鍛えるという視点で読むと、より応用性の高い能力が身につくでしょう。
「充実した人生」の基盤は、よい問いにある――そう確信させてくれる一冊です。「これまでの人生を考え直す」「これからの人生を思い描く」というタイミングで、ぜひお読みいただければと思います。