「ずれ」に気づいた「はぐれ者」の感性
第9回 flier book labo オープントークセッション 【イベントレポート】

フライヤーが主催するオンラインコミュニティflier book labo。主なコンテンツとして、オンライン上で書籍について語り合う読書ワークショップ「LIVE」、さまざまな領域で活躍するパーソナリティがflierの要約をもとにご自身の経験や解釈、アイデアなどを語る音声コンテンツ「TALK」、そしてlabo会員の皆さんの自主企画による読書会「CLUB」があります。
そんなflier book laboの魅力を少しでも多くの方に味わっていただくためのランチタイムセッション。教育者で哲学研究者の近内悠太さんをお招きして、株式会社フライヤー アドバイザー兼エバンジェリストの荒木博行さんのファシリテーションにより、「哲学するとはどういうことか」について語っていただきました。本記事では、当日の様子を再構成してお届けします。
私たちはつねに、すでにずれている
荒木博行(以下、荒木):
「世界と出会い直すための哲学」という今日のテーマは近内さんの「TALK」と同じタイトルですが、ここに込めたメッセージは何でしょうか?
近内悠太(以下、近内):ぼくは『世界は贈与でできている』という本を2020年3月に出しました。愛や優しさといったものを誰かに無償で提供することをテーマにした内容です。なぜそういうことをやらなければならないのかというと、ぼくらは「出会い直す」ことができるからだ、というメッセージを強く書いているんですね。
イヤなやつだと思っていた人が、実は単に不器用なだけで、感謝しなければいけないことをいろいろやってくれていたことに気づかなかった、ということってありますよね。そのようにぼくらの認識がずれてしまうことは、人間にとってデフォルトの条件だと思っています。何かを見落としていても、あとでそのことに気づけばいいじゃないか。最初から見落とさないなんてことはできない。それがぼくの人間観なんです。
最初からすれ違っているものを元に戻すという意味で、「出会い直す」という言葉をぼくはよく使っていました。


いまキーワードとして出てきた「ずれ」が意味していること、それを通じて近内さんが伝えたいことをお伺いしたいです。
近内:人間は、すぐに生活習慣や文化といった生態を変える生きものです。
みんな、いまマスクをしていますよね。我々は意図があってマスクをしていると思っているかもしれませんが、このことを動物と同じ目線で考えてみると、とんでもないことをしていると思うんです。たとえば、宇宙人が地球を観察してレポートを書かなくてはいけないとして、猫を観察しても、変化がないからそんなに書くことはない。猫が集団としてある習慣を身につけようとしたら、かなりのタイムスパンが必要になります。一方で、頻繁にころころ生活習慣を変えられてしまう人間を観察対象とする宇宙人は、本当に大変なはずです。
そうしてぼくらは簡単に文明と文化を変えていける。つまり、性選択、要するに進化による身体的変化を経るのではなく、環境の側を変化させてしまう。だから、ぼくらの脳がそれに一緒についていけるわけではないんですね。変わりゆく生活習慣とぼくらの身体は「ずれ」ていってしまう。これをぼくは、「進化からはぐれてしまっている」と表現しています。
なぜ勉強するのかとよく問われますが、「ずれ」ているからです。勉強しないとそもそも生きていけない。地球が丸いことですら自分で体験することができないのですから。ぼくらが当たり前に思っていることは、まったくナチュラルではなくてキャッチアップが必要なんです。その状態をぼくは「ずれ」と言っています。
精神的につらくなるのも「ずれ」の証拠だと思いますね。
一緒に歩きたい、そのための哲学
荒木:そこに問いを挟む、疑いを持つことは、大事なことだけれど、本当に大変なことです。いちいち問いを挟んでいると仕事が進まない。でも、足下で起きているこの状況を自分はどこまで理解しているのだろうと、ふと気づくこともありますよね。近内さんはこのあたりについて、どうお考えになりますか?
近内:哲学とは前提を疑うことです、とよく言いますが、哲学をやってきた人たちは、それが好きというよりはむしろ、前提を疑わざるを得なかった「困った人」、常識にアクセスする手前で「途方に暮れている人」なんです。
他者の悲しみを理解しよう、というような言説があったとき、哲学する人は、「私は私の悲しみしか知ることができないのに、なぜ他者の悲しみにアクセスするということができるのか?」という問いの前で立ちすくむ。そうして、心理学や脳科学の領域に入る前の段階で止まって「困っている人」が、哲学をやるんですね。
だから、哲学は楽しいというような、きらびやかなことではないんです。「歩けない」からリハビリする。そのプロセスを哲学と呼ぶ。ウィトゲンシュタインも、『論理哲学論講』で秩序だったきれいな世界を考えてしまったがゆえに、『哲学探究』では次のようなことを書いています。
「私たちはアイスバーンに入ってしまった。摩擦がないので、ある意味で条件は理想的だが、しかしだからこそ歩くことができない。私たちは歩きたい」(丘沢静也訳『哲学探究』岩波書店、2013年)。
「歩きたい」という切実さが根っこにある。そう苦しんだ人だからこそ言葉を残したのだなと思うと、哲学がとても人間くさくいじらしいものに見えてきます。
荒木:仕事をしていても、ルールにスムーズに乗れる人と乗れない人がいますよね。ルールそのものに対して問いが残り、つまずいてしまう人もいる。でも、そこが哲学の入り口になるのかもしれないですね。
近内:コミュニティのノリに乗れなくてつまずいて、ずれて、はぐれてしまった人が、みんなどうしてこのルールが大事だと思っているんだろう、と考えます。ウィトゲンシュタインもまさにそうで、彼は共同体からはぐれてしまった人でした。言語的コミュニケーションひとつとっても、「あうんの呼吸」みたいなやりとりが、彼にはテレパシーのように見えたのでしょう。その困難をどうすれば、どう解きほぐせば共同体の一員に戻れるのかを必死に考えた。
はぐれた人たちには、「炭鉱のカナリア」的な役割があると思います。人間よりも敏感に有毒ガスを感じとるカナリアのように、いち早く危険に気づきアラートを鳴らす。普段からおかしいと思っていたから変化に気づくのも早い。
それに、哲学者は「平常時」にすでに「途方に暮れて」います。社会のルールが変わってみんな右往左往しているときには、むしろうろたえたり焦ったりしません。ルールはデフォルトだという認識がないからです。
歴史やSFによる出会い直し

ぼくは社会人としての20年くらい、既存のルールに乗って、あまり疑うこともなく踊っていたタイプです。そういう人間が哲学に魅了されてその世界に分け入っていくと、そこで陥るのは、なんでこの人はこんな簡単なことをわざわざ難しく言うのかとか、なんでこんなところで悩むんだろうという思考なんです。
でも、哲学の視点で改めて世の中の仕事を見直すと、全然違うものが見えてくる。逆に、スムーズに同じ言葉で語られると、おそらく出会い直すことはできません。あえて違う世界に行くからこそ、「出会い直し」が発動するのかなという気がしました。
近内:歴史を学ぶことも世界と出会い直すことですよね。COTENラジオの深井龍之介さんは以前、資本主義は悪いものだとみんなよく語るけれど、資本主義があったからここまできたとも言える、というようなことをおっしゃっていたんです。資本主義はどう始まったのか、一方でこういう戦争が起きたけれど、こういう恩恵もあったといったことは、歴史を見てみると出会い直すことができます。
哲学は、もう一度井戸を掘るという感覚に近いと思っています。そうして、人間の心や社会制度などの起源を探っていくことで出会い直す。
荒木:出会い直しのパターンにもいろいろありますよね。いまおっしゃった「歴史」は昔にタイムスリップしていまを見つめる行為ですが、「SF」は未来にタイムワープしてその視点でいまを見てみること。時間軸を乗り越えて、当たり前だと思っている「いま」に出会い直す。
近内:『世界は贈与でできている』でも紹介した小松左京の短篇「夜が明けたら」では、太陽が上がらなくなったことによる怖い描写が続きます。じわじわと怖い。実際に読むとリアルにぞっとするんです。そうして、内側に入り込んで「感じる」ことが、「出会い直し」にはとても大切だと思いますね。感想を聞いて頭で理解するだけではなくて。
「空気」を超えて「飛躍」に至れ
荒木:近内さんは「TALK」でもそうした「出会い直し」について語ってくださいましたが、実際やられてどんな感想を持ちましたか?

こうしてキーワードを並べてみると、自分らしさが出ていますね。「本を読む意味」から始まって、最後は「はぐれ者の倫理学」にいく。その一歩手前で「ことば」について語る。
そういえば「TALK」のなかで、ぼくはよく「〇〇が大嫌い」ということばを使っていましたね。「〇〇」に入るのは、「エビデンス」「ファクト」「アカウンタビリティ」といった単語でした。
荒木:「嫌い」とおっしゃる背景は何ですか?
近内:マニュアルに安住してしまうからだと思います。だってファクト、エビデンスがあるもん、となって考えるのを放棄してしまう。
たとえば、新卒採用などでなぜ人事は東大生を選んでしまうのかといった話があります。決め手に欠けて困った人事の人が東大生を採るのは、その人が仮にその後不適格な人だったと判明しても、東大生なら大丈夫だと思った、という言い訳ができるから。それがまさにアカウンタビリティです。「俺がいいと思ったから」という責任の持ち方がなくなってしまう。
それは、ぼくはとてもイヤだなと思います。自分はこいつに見込みがあると思う、といった人間としての関わりは「賭け」ですよね。ここに乗る、ベットするんだという意思が必要なのではないでしょうか。
特に日本では、「空気」というものが醸成されてしまうと動かしがたくなってしまう。そこに人間として責任をとるリーダーシップは出てきません。「空気」のなかでは、責任者が見えなくなってしまう怖さがあります。
荒木:それはリーダーシップの本質かもしれませんね。数字だけで意思決定できるなら、リーダーはいりません。チームの意思決定にはたいてい「飛躍」があります。わからない世界も含めての飛躍があるから、そこではじめてみんなを引っ張っていくためのリーダーシップが必要になる。
経営の文脈ではまず感性の部分が大事。ロジックはあくまで後付けなんです。
※アカウンタビリティへの応答について語った近内さんのインタビュー記事はこちら。矛盾という多様性をはらむコミュニティ
荒木:学ぶ意欲はあっても、ビジネスパーソンは日々の業務に忙殺されがちです。そのなかで、どのように哲学の出会い直しの要素を取り入れれば、ソフトランディングできると思いますか?
近内:自分ひとりではなかなか哲学の本を読む時間がとれない、という場合は、2,3人でいいので、同じ本を読んで、感想を送り合う、気になったフレーズを伝え合う、といったことをするだけでも違います。大学のゼミに残っている輪読の慣習に近いですね。哲学分野では、90分の授業時間で1ページどころか1パラグラフだけしか進まないこともざらにあります。それでも仲間と読むという体験は大事です。
荒木:flier book laboはまさにそれを実現できる素晴らしいサービスです(笑)。参加されての印象はいかがでしたか?
近内:オンラインなのに、きちんと「コミュニティ」になっている場ですね。それに、ユーザのみなさんと本を一緒に読んだり、考えたりする、横並びな雰囲気があります。
パーソナリティも横並びに3、4人いる。しかも、一枚岩の主張をすることもありません。パーソナリティ同士で価値観が矛盾している場合もあると思いますが、それが多様性ですよね。
一個の仕組みのなかにそういう「矛盾」がきちんと入っていることが、とても素敵だと思います。
「flier book labo オープントークセッション」は、今後も定期的に開催予定です。次回もお楽しみに!
近内悠太(ちかうち ゆうた)
1985年神奈川県生まれ。教育者。哲学研究者。
慶應義塾大学理工学部数理学科卒業、日本大学大学院文学研究科修士課程修了。専門はウィトゲンシュタイン哲学。リベラルアーツを主軸にした統合型学習塾「知窓学舎」講師。教養と哲学を教育の現場から立ち上げ、学問分野を越境する「知のマッシュアップ」を実践している。
『世界は贈与でできている』がデビュー著作となる。
荒木博行(あらき ひろゆき)
株式会社学びデザイン 代表取締役社長、株式会社フライヤーアドバイザー兼エバンジェリスト、株式会社ニューズピックス NewsPicksエバンジェリスト、武蔵野大学アントレプレナーシップ学部 客員教員、武蔵野大学アントレプレナーシップ研究所客員研究員、株式会社絵本ナビ社外監査役、株式会社NOKIOO スクラ事業アドバイザー。
著書に『藁を手に旅に出よう』(文藝春秋)『見るだけでわかる! ビジネス書図鑑』『見るだけでわかる!ビジネス書図鑑 これからの教養編』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『世界「倒産」図鑑』(日経BP)など。Voicy「荒木博行のbook cafe」毎朝放送中。