【フライヤー研究所コラム】
VRは私たちの「知」をどう劇的に変えるのか?


私たちをとりまく社会の変化は予想以上に早く、今後どのような世界になるのかを予測するのは困難です。そのような時代において、これからの「知」との接し方は、どのようなものになるのでしょうか。
この連載では「フライヤー研究所」と題しまして、これからの「知」の接し方や関わり方について、いま熱い領域をピックアップしてお伝えしていきます。第1回のテーマは「VR(Virtual Reality)」です。2020年にOculus Quest2が発売されたこともあり、日本でもVRはすっかりお馴染みのものになりましたが、「VRといえばゲームなどのエンターテインメント領域のもの」という見方が、まだ一般的な考えかと思われます。
一方でVRは、学校教育や職場での技能習得、コミュニケーションの活性化、自律学習の促進など、さまざまな現場でも少しずつ取り入れられており、私たちの「知」との接し方を変えるポテンシャルを秘めています。
実際のところ、VRは私たちの学習体験を劇的に変えるツールたりえるのでしょうか。今回はVRの学習効果について理解するうえで、ぜひチェックいただきたい書籍をご紹介いたします。VRは日進月歩の世界であり、最新の知見を追ううえにはウェブ上の情報が欠かせません。しかし根本的な性質や理論を理解するうえで、本という媒体は非常にすぐれています。VRが私たちの学習を変える可能性について思いを巡らせながら、未来のあり方について考えてみませんか。
なお本連載では、要約になっていない書籍についても取り上げていきます。あらかじめご了承ください!
VRの凄さについて知りたければ、まずこの一冊
原題は『EXPERIENCE ON DEMAND』(2018)。著者のジェレミー・ベイレンソン教授は、スタンフォード大学でバーチャル・ヒューマン・インタラクション研究所を設立し、VR研究の第一人者として知られている人物です。「VRは凄いというけれど、実際に何が凄いの?」と疑問に感じたら、まずおすすめしたい本といってもいいでしょう。現時点で日本語になっている書籍のなかだと、最もVRの学習効果を明瞭に描き出していると思います。
本書の射程はVRの持つありとあらゆるポテンシャルに及びますが、「学習」という観点でみると、最も鮮烈な印象を残すのが「NFL(アメリカのプロアメリカンフットボールリーグ)の複数のチームが、すでにVRを用いた練習を導入している」という下りでしょう。VRがスポーツなどの具体的なスキル習得に役立つのは明らかで、スポーツの他にもすでに外科医や兵士、はたまたスーパーマーケットでの訓練にも取り入れられているといいます。また、交渉やスピーチなど、一般的なビジネススキルの向上にも寄与すると見られており、今後この領域にはさらなる注目が集まりそうです。
「VR訓練について最も胸が高鳴るのは、それが学びとトレーニングを平等にみんなのものにできる可能性を秘めているところだ」とベイレンソン教授が語るように、VRが近い将来、私たちの学習についての考え方をガラリと変えてしまうかもしれません。すなわち、「少数の恵まれた才能をもつものがいる」という私たちの常識を。なにせテレビやインターネットと違い、VR内ではあたかも現実のように「体験」することができ、しかも理想的な状況で何度も繰り返し学習できるのですから。
世界で活躍する、VR教育研究者の論文集

VRが学習・教育領域において絶大なポテンシャルを持つことは確かですが、一方で課題が山積していることも事実です。それは技術的・資金的な問題に加え、心理学や教育学での知見が、実際のプロダクトやサービスにうまく反映されていないという側面もあるでしょう。
VRの学習・教育利用に関する研究では、理論と実践を結びつけるべく、いまさまざまな議論が交わされています。その全体像を理解するうえで、参考になるのがこちら。ハーバード大学と北京師範大学の協同プロジェクトとして出版された本書は、VR(を含めたxR領域)と学習に関する理論的なフレームワークと実際のケーススタディ、ならびにVRを取り巻く社会的な側面について、さまざまな研究者の論文をまとめたものです。全体的にやや専門的な内容ではありますが、将来の学習についてワクワクさせる記述も数多く並んでいます。
とりわけMel Slater教授が担当する第2章は必読です。Slater教授はVR内のアバター(分身)が使用者に与える影響についての研究でよく知られており、2018年には「自尊心の低い被験者がVRでアインシュタインを模したアバターを用いたところ、認知課題の成績が向上した」という実験結果を発表して話題を集めました。
本書の刊行は2017年ですが、この時点でも「オーケストラの指揮者になる方法を学ぶ人は、たとえばレナード・バーンスタインに似た身体に具現化されるのが最適かもしれないし、オペラを学びたければルチアーノ・パバロッティやマリア・カラス、バレエならナタリア・オシポワに似た身体を身にまとうのが最適かもしれない」といったことに言及しており、幅広いスキル獲得にアバターの利用が大きな効果をもたらす可能性を示唆しています。今後の研究にも要注目です。
バーチャルリアリティを学ぶことは人間を学ぶことである
最後にご紹介したいのが、2011年に刊行された『バーチャルリアリティ学』です。日本バーチャルリアリティ学会が総力を上げて編纂した、まさに「教科書」に位置づけられる一冊で、とりわけVR技術者にとっては外すことのできない内容となっています。VRの根本的な考え方、システムの原理、人間の認識や行動の仕組みといった基礎の部分から、実世界に関連するVRの展開や社会との関連まで一通り学ぶことができるため、VRという技術や考え方の全体像を把握するうえで最適です。
VRは一般的に日本だと「仮想現実」と訳されますが、実際は本書でも語られているように、「実質現実」と訳されるのが妥当でしょう。「現実」ではないかもしれないが、限りなく「現実」に近い――単なる「仮想」を超えた体験こそが、バーチャルリアリティの本質です。そういう意味では、お金を中心に動く貨幣経済や、テレビやインターネットを通して得られる出来事だって「バーチャル」なものと言えるでしょう。そのなかでいま「VR」と呼ばれるものは、人間の認知機能をハックすることで、その解像度を極限まで高めようとする試みといえるのかもしれません。
VRと学習についての研究開発はまだ道半ばであり、特にプロダクトやサービスへの応用という部分では、まだまだ参入余地が残されています。ですがVRの理論的背景を押さえているかどうかで、その後のプロダクトやサービス開発に大きな違いが生まれるのではないでしょうか。VRと学習に関するプロダクト開発や研究に携わりたい方、VRの仕組みそのものを理解したいという方は、ぜひ本書をお読みいただければと思います。