イオンを創った女

評伝 小嶋千鶴子
未読
イオンを創った女
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評伝 小嶋千鶴子
未読
イオンを創った女
出版社
プレジデント社

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定価
1,760円(税込)
出版日
2018年11月04日
評点
総合
3.7
明瞭性
3.5
革新性
3.5
応用性
4.0
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おすすめポイント

第二次世界大戦後、三重県四日市の呉服屋を日本一の巨大流通グループ、イオンへ成長させた岡田卓也名誉会長。本書は、親代わりとして、姉として、そして最高人事責任者として彼を支えた実姉・小嶋千鶴子の評伝だ。

千鶴子は、父と母と姉を早くに亡くし、若干23歳で岡田呉服店の代表取締役とならざるを得なくなる。予定していた結婚も延期し、10歳年下の長男・卓也を含め、家族と会社の双方を切り盛りしていたというから驚きである。戦前・戦時中の激動の中で、何を改革すべきか、障害となるものは何かを見極め、次々と施策をうつことができたのは、彼女の負けん気の強さと向学心の高さによるものに違いない。

卓也を大学まで卒業させ、岡田屋の代表取締役とした後、千鶴子は一旦岡田屋の経営から身を引く。その後復帰し、卓也の描くさまざまなビジョンを実現するため、矢継ぎ早に人事施策を実行した。当時の岡田屋・ジャスコがおかれた状況を踏まえて読むと、大卒者の定期採用、女性社員の戦力化、企業内大学の発足、ジャスコ大学・大学院の設立など、これらの人事施策がなぜ必要だったのか、そしてそれらの施策がいかに効果を発揮したかがよく理解できるはずだ。

「いかなる優れた企業も、社会の変化に適応しなければやがて衰退する」――標語のようによく言われることだ。だが、それを現実的な危機として実感し、変革を推進するリーダーの育成は、現代においてますます重要であるに違いない。今こそ読まれるべき一冊であるといえよう。

ライター画像
星名大輔

著者

東海 友和(とうかい ともかず)
三重県生まれ。岡田屋(現イオン株式会社)にて人事教育を中心に総務・営業・店舗開発・新規事業・経営監査などを経て、創業者小嶋千鶴子氏の私設美術館の設立にかかわる。美術館の運営責任者として数々の企画展をプロデュース、後に公益財団法人岡田文化財団の事務局長を務める。その後独立して現在、株式会社東和コンサルティングの代表取締役、公益法人・一般企業のマネジメントと人と組織を中心にコンサル活動をしている。特に永年創業経営者に師事した経験から得た、企業経営の真髄をベースにした、経営と現場がわかるディープ・ゼネラリストをめざし活動を続けている。
モットーは「日計足らず、年計余りあり」。

著書に『イオン人本主義の成長経営哲学』ソニー・マガジンズ、『商業基礎講座』(全5巻)(非売品、中小企業庁所管の株式会社全国商店街支援センターからの依頼で執筆した商店経営者のためのテキスト)がある。

本書の要点

  • 要点
    1
    千鶴子は最高人事責任者として、四日市市の岡田屋をジャスコへ、そしてジャスコをイオングループへと育て上げる基盤を築いた。
  • 要点
    2
    千鶴子はしばしば、社員に「問題あらへんか?」と問いかける。このひと言によって、仕事で困っていることはないか、お客様からの苦情や商品の品切れ、上司・部下の関係、そしてプライベートに問題はないかを尋ね、手を差し伸べようとしているのだ。
  • 要点
    3
    千鶴子の人事政策の要諦は、変革を許容し、積極的に対応する人材を育成することである。

要約

小嶋千鶴子の人生

岡田呉服店の代表取締役に就任
wutwhanfoto/gettyimages

岡田卓也イオン名誉会長(以下、卓也)は「姉、千鶴子がいたからこそ、現在のイオンの繁栄があることは間違いありません」という。三重県四日市市で生まれた岡田屋をジャスコへ、ジャスコをイオングループへ育て上げる基盤を築いたのが彼女である。

小嶋千鶴子(以下、千鶴子)は、家業を企業へ、そして産業へと育て上げた。そしてその過程で数々の合併を成功させている。その手腕から、人々は彼女を「人事・組織専門経営者のレジェンド」と呼ぶ。驚くべきことに彼女は、半世紀前に今日で言うところの「経営人事」「戦略人事」の概念を確立し、CHRO(最高人事責任者)の役割を果たしていた。

千鶴子は1916年、四日市の呉服屋の次女として生をうける。そしてその約10年後、長男の卓也(のちのイオングループ名誉会長)が誕生した。

千鶴子が生まれ育った時分、岡田屋は波乱を迎えていた。11歳のとき、父が急逝。母が大黒柱となる。その母も、千鶴子が20歳のときに帰らぬ人となった。その上、母に代わって店を仕切っていた長女も亡くなってしまう。結果として、23歳の千鶴子が株式会社岡田呉服店の代表を務めることとなった。当時彼女には婚約者がいたが、長男・卓也を一人前にするまでは結婚を延期することも決めた。

結婚を経て再出発

1948年、卓也は早稲田大学を卒業し、岡田屋の代表取締役に就任した。2年後には卓也・千鶴子ともに結婚。岡田千鶴子は小嶋千鶴子となった。

彼女は結婚を機に岡田屋の経営から身を引き、大阪の住吉区へ住居を移す。そして永年の夢であった「本屋」を開店する。女性店主として界隈で評判だったという。

しかし結局、1959年には四日市に戻ることになった。なぜなら当時岡田屋は、津市の中央に進出、近鉄四日市駅前に百貨店をオープンするなど、成功をおさめながらも競争にもまれていたからだ。

人材確保と社員教育

卓也の目標は、日本で小売業のチェーン化をめざすことであった。そんな卓也を、人事部門をはじめとする管理部門の総責任者として支えたのが千鶴子だ。

店舗数を増やすには、何より人材が必要だ。千鶴子は自ら学校をまわり、人材確保に奔走した。新卒採用を本格的にスタートさせ、女子社員の戦力化、パートタイマーの積極的な雇用などにも取り組んだ。

同時に、躾と知識に重点を置いた社員教育にも注力した。日曜日に休めない女性社員のために、終業後に「お茶」や「お花」を習わせもした。結果、高校からはトップクラスの生徒が推薦されるようになるとともに、「嫁をもらうならオカダヤさんの店員をもらえ」という評判がたつようになったという。

1964年には、高校卒の男子社員を対象に、企業内大学OMC(オカダヤ・マネジメント・カレッジ)を発足させた。小売業初の取り組みだった。OMCでは人間形成のための教養課程と経営学を中心としたカリキュラムが組まれた。

退任まで
YakubovAlim/gettyimages

千鶴子と岡田は、価格決定権をもつメーカーに対抗すべく、合併による会社拡大をめざした。伊勢の「カワムラ」や静岡の「マルサ」、豊橋の「浦柴屋」との業務提携・合併に加え、1969年には兵庫のフタギと大阪のシロと合併してJUSCOが誕生した。

千鶴子は社是として「商業を通じて地域社会に奉仕しよう」を掲げ、「ジャスコの信条」と「ジャスコの誓い」を作り、行動規範として全従業員に配布、唱和させた。さらに同年4月にはジャスコ厚生年金を設立。7月にはジャスコの人事制度の柱ともいうべき「ジャスコ大学」を設立した。

東証・大証・名証各市場第二部に上場を果たした1976年には、上位職トップマネジメントの育成のため、ジャスコ大学大学院を創立する。経営に関する政策問題を取り上げ、ケースメソッドやビジネスゲームなどの体験学習も採用した。

千鶴子はこのように、人事専門経営者として、今日から見ても数々の新しい施策を行った。そして1977年、役員の定年である60歳になると、あっさりと未練なく退任したのだった。

小嶋千鶴子の人生哲学

「私の歳まで生きたらどうするの?」

千鶴子は102歳だ。彼女はしばしば、元従業員たちに対し、「あんた、私の歳まで生きたとしたらどうするの?」「これからのほうが長いから」と言う。相手にセルフマネジメントを促しているわけだ。

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要約公開日 2019.02.04
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