インドのある地方都市から別の地方都市へ。若き日の著者は、郊外を走るバスに一人乗っていた。次から次へと現れる初めて見る景色に、次第にうっとりとしてくる。感性が研ぎ澄まされ、周囲のモノたちが話しかけてくるような感じがする。
どうでもいいもの、見慣れたものなど一つもない。何もかもが、意味のある小さいメッセージを秘めているようだ。こうした陶酔の時間こそ旅のエッセンスだ。
放浪の旅は一人旅である。自力で旅をすると順応力が強化され、さまざまな社会的状況に適応できるようになる。
自分が来たいからここに来た。頼れるのは自分だけ。現実は予測がつかないし、絶えず変化する。昨日も今日も明日も、すべて当日の成り行き任せ。次に何が起きるのか、私が今どこへ行くか、そんなことは誰も知らない。
目的地に到着するのは日没前かもしれないし、真夜中寸前かもしれない。計画どおりになんていくわけもない。それでも平然としていられる。バスが10分遅れれば、別の場面を体験して、旅の本質を発見できるからだ。
インドを1カ月も旅していると、第七感が身についてくるようだ。何かを売りたがっている人、一杯食わせようとしている人、仲間になりたがっている人、単に外国人に興味がある人……少し接しただけでそれらを見分けられるようになってくる。
旅における人との出会いは、ごく短いものだ。言葉を交わさないこともある。
北京に行ったときのことだった。大通りから一歩入ると、そこには昔ながらの低層の一軒家がたくさん建っている地区が広がっていた。茶器を売る店の前で足を止めた。
店の外には、おじいさんが座ってあたりを眺めていた。まるで誰かやって来て話し相手になってくれるのを待っているかのようだった。彼は著者に向かって顔全体でほほえみかけ、横にある小さな椅子におすわりになったら、と両手で合図した。
腰かけると彼はお茶を出してくれた。ふたりは一言も発しなかったが、それでも相手を理解しようと強く思い、その思いが互いに伝わって、忘れがたい印象を残した。およそ15分間、彼がお茶を注ぎ、著者がいただく、ただその繰り返しだったが、おじいさんの人間としての揺るぎなさに圧倒される思いだった。あれから何年も経っているが、彼の強烈な存在感はいまだに記憶に残っている。
人はやがて、初めての場所に訪れることをやめ、何度でも同じ場所に戻ってくるようになる。著者にとってそのような場所は、ギリシャのナクソス島とインドのムンバイだ。繰り返し訪れると、まるでジグゾーパズルのピースが埋まるように、少しずつその土地の全貌に近づいているという実感が湧いてくる。
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