世界ではいま、急速にグローバリゼーションが進み、「グローバルな経済とローカルな国家の対立」が顕在化しはじめている。この構造自体は、かつてから指摘されていたものだ。問題はそのパワーバランスの急激な変化である。2016年11月8日、トランプ大統領が誕生した理由もここに見いだせる。
トランプを支持する層の多くは、ブルーカラーだと言われている。彼らはグローバル化の流れに乗れず、自分たちは格差社会の割を食っていると考えている。そのため「壁を作れ」と声高に叫ぶリーダーを選んだのだ。一方で大都市に住む企業家、投資家、エンジニアたちは、すでに国家や民主主義を必要としていない。なぜなら彼らは住む場所に拘泥せず、世界を舞台にした巨大なマーケットの中で生きられるからである。その国がイヤであれば、いつでも出ていける立場に彼らはいる。
英ジャーナリストのディヴィッド・グッドハートは、グローバルな経済で活躍する「Anywhere」な人々と、ローカルな国民国家に依存する「Somewhere」な人々というかたちでカテゴライズしている。
「Anywhere」と「Somewhere」の人々を分けるものは何か。それは「世界に触れている感覚を持てるかどうか」だと著者は主張する。Anywhereな人々が世界と接続されていることは、想像に難くないだろう。彼らはグローバル市場(=「境界のない世界」)で、情報テクノロジーを駆使しながら活躍できる人々だ。一方でSomewhereな人々はどうか。たとえばラストベルトの自動車工が、「自分はグローバル市場のプレイヤーである」という意識を持つことはなかなか難しい。だからこそ、グローバル市場に対抗するための「壁」を作ってくれそうなトランプやブレグジットを支持する。ここでいう「壁」というのは、「メキシコの間に壁を作れ」というような、物理的な意味だけに限らない。
「Anywhere」な人々からすると、そんな「Somewhere」な人々を否定するのは簡単だろう。だが「Anywhere」な人々がグローバルな資本主義のプレイヤーである以上、ローカルな民主主義において「Somewhere」な人々に敗北するのは、なかば必然のことである。「Anywhere」な人々が国家やローカルな民主主義を飛び越えて活躍できるようになったいま、民主主義という機能はむしろ「Somewhere」な人々にとって、世界に触れている実感を与えてくれるものとなった。
グローバルな経済がローカルな政治を凌駕し、民主主義がグローバル市場を統制する術を持たない。この社会システムの機能不全こそが、いま私たちが直面している問題なのである。
21世紀は「コト」の時代だ。モノを所有するよりも、自分の物語としての体験(「コト」)に重きが置かれる。
一方でそれ以前、つまり20世紀は他人の物語を共有する時代だったと言える。ラジオ、映画、テレビなど、マスメディアは市民生活と密接にかかわり合ってきた。メディアは基本的に他人の物語を見たり聞いたりするものだ。そしてそれを皆で共有することで、社会が維持されてきた。メディアが世界との接点となっていた時代である。
メディアはその強力なリーチから、しばしば政治に利用された。ナチスや戦時中の日本軍を見てもわかるとおり、マスメディアはポピュリズムを増大させる装置として非常に有能だからだ。
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