日本の分け方
東と西

京阪式アクセントに当てはめると、真ん中にアクセントがくる「マクド」のほうが発音しやすい。だから、近畿と四国ではマクドナルドのことを「マクド」と呼ぶという説がある。ここからもわかるように、一括りに「西」と言っても、西日本全体や関西だけを指すわけではない。
東日本/西日本の分け方でよく話題となるのが、東西の境界線である。気象庁の天気予報では、福井県から三重県にかけてのラインだ。太平洋側では東海道に設けられた箱根の関所より東が、現在の「関東」に当たる。日本海側では富山県と新潟県の県境が東西の分け目になりやすく、その少し東側にある断崖絶壁、親不知付近は、NTT東日本/西日本の境界になっている。
日本列島を縦断する地溝帯、フォッサマグナが東西文化の境界と考える人もいるだろう。しかしフォッサマグナは、西縁である糸魚川-静岡構造線(糸静線)と、諸説あるが千葉や利根川周辺の境界線の間に位置する、面的な領域だ。これが東西境界であるなら、東京は東西の中間地帯ということになってしまう。一方で、糸静線を東西文化の境界にしようとしても、たとえば方言は、糸魚川-浜名湖線が分け目になっている。日本海側の境界はたいてい親不知であり、そこから、飛騨山脈や木曽山脈を経て、浜名湖あたりへと至る。文化の違いは当然ながら、人の行き来の少なさに起因するわけだ。
アクセントの分布や雑煮文化の違いを見ていくと、「関西と九州の間にもゆるやかな境界がある」気がする。人口動態の側面で、もっとも居住地移動が多い20代前半に絞ると、糸静線より東では東京都への移住者が、大阪府への移住者の10倍以上になる。それが、九州ではむしろ東京への移動者が多くなっている。その背景のひとつは国内航空旅客輸送、新幹線の発達であり、「九州の東京志向化」を後押しした。それ以外にも、エネルギー革命や、ITのような新産業の集中などさまざまな要因が重なり、東京一極集中の流れを強めている。
歴史的に関西と関東は日本の核であったが、そこからすべての文化が広がるわけではないのである。
地方ブロック

東北や北陸といった地方区分とその違いは、いかにして成立したのか。特に気になるのは、「札仙広福」という4都市が、どのように地方中枢都市となっていったのかである。
明治時代の廃藩置県からしばらくまでは、律令制由来の令制国と五畿七道が使われていた。1903年に制定された尋常・高等小学校の国定教科書をきっかけに、北海道を含む現行の地方ブロックが普及するようになる。このとき、関東と奥羽(東北)、近畿に囲まれた地域が暫定的に「本州中部地方」と区分されたが、特に変更されないまま現在に至っているようだ。
戦前の1927年、田中義一内閣の行政制度審議会は、国の行政機関と地方自治体を兼ねていた当時の府県の上に、国政事務を担う州庁を置いて、府県は地方自治のみを役割とする「州庁設置案」を提出した。道州制の先駆けともいえるこの計画は実現しなかったが、こうした分割は統一的な中央権力の存在があるときに可能となる。
戦時期の1943年、総力戦体制における国土計画で、樺太(現サハリン)を含む10区分が設定され、地方都市が3段階の等級に分けられた。札仙広福の4都市は、このときの第一級都市として挙げられていた。計画自体は素案レベルに留まったが、銀行や新聞、鉄道、電力事業といった「さまざまな企業が府県などを単位として統廃合」された。人口や産業の国家主導による合理的な配置である。
高度経済成長期には、札仙広福がそれぞれのブロックでもっとも人口の多い都市となり、地方ブロック単位の開発計画の中心に位置づけられた。1969年策定の「新全国総合開発計画」では、首都圏、近畿圏、中部圏の三大都市圏に、北海道圏、東北圏、中四国圏、九州圏が加えられ、「7大都市圏」という区分のなかで開発事業が提示されている。
1973年のオイルショックは象徴的な契機だが、日本の脱工業化・サービス業化が進むなかで、札仙広福といった県庁所在都市に地方拠点が集約されるようになる。「支店経済都市」と呼ばれるサービス業中心の都市として、1987年策定の第4次全国総合開発計画では、札仙広福の地方中枢都市としての地位が確立された。なかでも福岡は、人口では札幌市より少ないものの、人口密度、人口増加率が高く、勢いのある都市といえる。福岡空港の国際線旅客数も外国人人口の増加も著しく、韓国や中国、東京との距離を考えると、航空ネットワークにおける拠点性が高い。それをバネに、「アジアのリーダー都市」と銘打って企業誘致などを積極的に行なっている。商業優位の産業構造は、女性比率の高さ、ひいては高い出生率にもつながっている。
地方ブロックは近代以降に少しずつ形成されたものであり、実態と一致していないブロックも存在した。とりわけ中四国は、ほかのブロックよりもまとまりが弱く、広島の影響力は限定的だ。単一の中心と、同等の規模を持ち、相互に排他的な地方ブロックという考え方は、あくまで行政上の理想であり、「地方ブロック幻想」とでも呼べるものである。この状況に対し、どのような地域の見方を考えていけるだろうか。
風土をつくるもの
南海日本

「南国」という言葉にはどこか開放的なニュアンスを感じる。古くは、川端康成の『伊豆の踊り子』に代表されるように、関東のリゾート地である伊豆には「南国」のイメージがある。関西では和歌山がそれにあたるだろう。
気候の面からは、福岡県から千葉県にかけてのラインより南側で、年平均気温が15度以上となっており、夏の降水量分布もほぼその地域と重なる。これはいうまでもなく、台風の影響によるものだ。この鹿児島県から静岡県あたりまでの太平洋側一帯を、「南海日本」と呼ぶことにしよう。ちなみに「南海」という呼称自体は、紀伊半島から四国にかけての太平洋を指す歴史的なものである。
気候が似ている南海日本で、まず注目できる共通点は、茶の生産であろう。静岡県は有名だが、2024年には鹿児島県が生産量トップとなっている。山間部に茶畑が多い静岡県と違って、平地の鹿児島県では機械化による大量生産が可能だ。伝統的な茶産地は急須を前提とした茶が主流なのに対し、新興の鹿児島ではペットボトル向けの茶に注力している。
ほぼ太平洋に面している南海日本は、南西から北東に向かって流れる黒潮が海の道となっている。マグロ・カツオの漁獲量は静岡県が1位で、輸出ものも含めたマグロ缶詰生産の97%を占める。かつお節の製法は江戸時代に紀州で発明され、明治時代にかけて土佐節・薩摩節・伊豆節が三大名品となった。いまでも、鹿児島県と静岡県で、全国のかつお節の99%を生産している。かつお節・削り節を家計支出の面でみても、鹿児島市、静岡市、高知市といった南海日本の都市が上位にくる。
黒潮は文化も広げてきた。伊豆から江戸に向かう航路である「南海路」は、江戸時代の紀州商人がよく利用していた。房総半島の九十九里浜で盛んだったイワシの地引き網漁は、紀州半島の漁師にルーツをもつという。
日本列島は東北日本と西南日本に分けられ、西南日本は、日本列島がいまの姿になる前に形成された断層である中央構造線を境に、北側の「内帯」と南側の「外帯」に区分できる。本書での南海日本は、おおむね「西南日本外帯」と重なる。西南日本外帯は、南からのプレートの圧力と、河川の侵食によって、急峻な山々が形成された。それが多くの雨をもたらし、森林や茶といった作物を育てたのである。
鉄道の開業により海から陸へと交通の中心が移り、黒潮文化圏は分断されていった。紀州は東海道本線・山陽本線という国土軸からはずれ、薩摩・土佐も開発軸から取り残される。そうして周縁化される一方で、交通網の整備と運賃の低価格化により、海辺のリゾート地としての観光需要が高まった。ここに「南国」イメージがつくりだされ、非日常的な場所として、「『観光のまなざし』のもとにさらされていった」のである。
【必読ポイント!】 移動を軸にする
地域区分とは

地理学における「地域」概念のなかで代表的なのは、「等質地域」と「結節地域」という分類である。等質地域は「似たような性質を持った地域」を指し、気候、地形、土壌といった自然条件だけでなく、稲作・畑作のような農業区分もある。結節地域は、「人や物などの流れによって中心と周辺が結びついた地域のまとまり」のことだ。商業地やベッドタウン、工業地帯といった異なる性質の場所が結びついている都市圏は、例としてわかりやすいだろう。
したがって地域区分とは、等質地域という類似性、もしくは結びつきの強さをみる結節性を判断する行為といえる。類似性、結節性のあり方は「地域構造」とでも呼べる。
たとえば「南海日本」の地域区分は、太平洋側の気候で、かつ黒潮が流れる鹿児島から千葉あたりを指していた。地形と気候という自然環境が似たような風土を生む点で、その地域性は等質地域だ。もちろん、紀州と房総半島を結ぶ海運という交通も重要で、離れた場所を結び結節地域をつくると同時に、等質地域の要因にもなる。近代に発展した鉄道によって、海運が陸運へと転換され、地域の周縁化という結節地域の変容をもたらした。
産業構造の転換も、地域構造が変わっていく原因となる。農林漁業の比重が高いときは地形や気候の影響が大きい一方で、工業化が進むと、原材料や製品の輸送、労働力の確保のために、交通原理が地域構造を強く規定するようになる。そこから、製鉄業などの「重厚長大」産業が衰退し、自動車や電子機器などの「軽薄短小」産業が基盤になると、湾岸部から遠く離れた場所にも工場を建てる動機へとつながり、内陸型の工業地帯が形成された。
地域構造は、人とモノの移動によって根本的に変化する。制度や慣習などは関係してくるものの、「輸送費および人件費を最小化できる地点が工場の立地適地」とするのが、古典的な工業立地論だ。ただし、脱工業化が進んだ1970年代以降は、金融、メディアといった第三次産業が経済の中心となり、人が集まる都市、なかでも東京に集中するようになった。一方で、「南海日本」のカツオといった食文化の地域差のように、移動によってあまり変わらず、伝統的な地域構造を示すものもある。
地域のこうした多様なつながりは、地方ブロックには本来収まらない。地方ブロックという地域区分は、札仙広福のような中枢都市を中心に行政上の効率性を追求して設定された「結節地域」といえるだろう。しかし、そうした手続き的な「結節地域」は、方言や食文化などにみられる等質地域だけでなく、地方内での経済格差などをも覆い隠す。
行政原理による地域区分は「地方ブロック幻想」であり、「結節地域としても等質地域としても、極めて実態の弱い地域区分」なのだ。「地域」は歴史のなかで形成されてきたものであり、「南海日本」のように、着目する指標次第で「地方ブロック」からズレた地域区分を描き出せる。それに、人やモノは、地域区分を越えて移動していく。「領域をまたぐ移動を軸に地理を捉えること」が、「これからの時代に必要な地理認識」である。
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