エビデンスをめぐる二つの罠
エビデンスの罠と物語の罠
エビデンスをめぐっては、二つの議論がある。一方は、エビデンスがもたらす問題に警鐘を鳴らす立場だ。数字のように「客観的」とされる情報にこだわるあまり、本末転倒な事態が起きることを危惧し、それが過剰な競争主義や能力主義を引き起こすのではないかと主張する。
もう一方には、エビデンスをより活用することで、合理的な社会をつくり上げようとする立場がある。この立場は、非合理な意思決定のあり方を変えることで、よりよい社会を実現できると考える。
本書は、双方の立場にそれぞれ問題があるというスタンスをとる。エビデンスを絶対視することにも、エビデンスを疑いすぎることにも罠がある。では私たちは、数字や専門家の知見とどのように向き合えばよいのだろうか。
『測りすぎ』――数字によるトリック

エビデンス、つまりevidenceの語源はラテン語の「evidentia」にある。これは「一目見れば明白なもの」という意味を持ち、転じて「証拠」や「根拠」を示す「evidence」となった。
昨今、エビデンスとして扱われる情報には数字が多い。数値や指標を用いたマネジメントは社会を飛躍的に進化させたが、同時にさまざまな問題も引き起こしている。
そうした事態を活写した著作の一つが、ヨーロッパ知性史を専門とするジェリー・Z・ミュラーによる『測りすぎ』である。ある決定や行動についての理由を説明させ、誤りがあった場合には責任を取らせるという考え方を「アカウンタビリティ」と呼ぶ。アカウンタビリティ自体は、民主主義を強化し、よりよい政治や社会を生み出すために不可欠である。だが、それが誤った形で社会に実装されると、問題が起きる。












