吉本興業を創った人々

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吉本興業を創った人々
ジャンル
出版社
出版日
2017年10月16日
評点
総合
3.7
明瞭性
4.0
革新性
3.5
応用性
3.5
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おすすめポイント

吉本興業がいかにして「漫才」という演芸をつくりあげ、「笑いの文化」を代表する企業となったのかを知りたければ、これを読むべきである。

まず資料としての価値が非常に高い。当時の風俗や時代背景はもちろんのこと、インタビューや写真、新聞記事の紹介なども豊富だ。日本の笑いの歴史を知りたい人にはもってこいである。

だが本書の真の価値は別にある。社会の中で文化がどのように生まれてきたのか、そして文化によって街がどう形作られ、人々の生活がどのように変化したのか。そのダイナミズムが語られているのだ。吉本の軌跡を通して、社会と文化と人間がいかに絡みあって発展するかが見えてくるだろう。

吉本がいかに時代を読み、変化に対応してきたか、その嗅覚の鋭さに驚かされる一冊である。企業としての吉本の取り組みは、テレビで見るお笑いのイメージとはギャップがあってなかなか新鮮だ。本書を通して吉本をみると、彼らの生み出した笑いの文化が、いっそう興味深く感じられるはずである。

笑いに興味がある人、日本文化に興味がある人はもちろん、変化の激しい現代を生きるビジネスパーソンにも本書を読んでいただければと思う。かつて激動の時代を生き抜いた商売人たちの智慧がここにあるのだから。

ライター画像
山田宗太朗

著者

堀江 誠二(ほりえ せいじ)
ノンフィクション作家、テレビ構成作家。1939年(昭和14年)大阪生まれ。映画会社宣伝課勤務、業界紙記者、コピーライター、PR誌編集者などを経て、企画集団アクトを主宰。大阪在住のテレビ構成作家として、『プロポーズ大作戦』(朝日放送)、『ふるさとZIP探偵団』(関西テレビ)をはじめ、人気テレビ番組の企画、構成を数多く手がけるとともに、近代日本の芸能や昭和史を得意分野とするノンフィクション作家として活躍。2005年10月に末期肺癌で入院。半年の闘病生活の後、2006年3月28日逝去。
著書に『悪声伝・広沢瓢右衛門の不思議』(朝日新聞社)、『女たちが築いた生保王国』(TBSブリタニカ)、『チンドン屋始末記』『「歴史街道」を歩く』『ある沖縄ハワイ移民の真珠湾』『まどろみの海へ』(以上、PHP研究所)。

本書の要点

  • 要点
    1
    吉本興業の歴史は、吉本吉兵衛(通称・泰三)と妻のせいが小さな寄席を経営することから始まった。さまざまな演芸を提供することで客を掴み、10年で大阪の寄席のほとんどを配下に収めた。
  • 要点
    2
    吉本は万歳(漫才)に力を入れ、ラジオや映画分野にも積極的に進出していった。戦後は映画を中心に体制を立て直し、ボウリング場の経営なども行なった。
  • 要点
    3
    テレビを活用し、大阪の芸人を東京経由で全国区にデビューさせたのも吉本だ。また静止衛星や国際化にもいちはやく対応。総合娯楽商業としての地位を築いた。

要約

演芸王国の誕生

吉本の歴史

吉本興業(以下、吉本)の歴史は明治45(1912)年、吉本吉兵衛と吉本せいの若夫婦が、天満宮裏に並ぶ寄席のひとつを経営するところから始まった。

寄席を経営する前の吉兵衛は、旦那芸として覚えた剣舞に病みつきになっていた。「女賊島津お政本人出演のざんげ芝居」なる一座の太夫元になって、みずから地方巡業したほどである。その結果、破産宣告を受けてしまった。

失意の吉兵衛に寄席の経営をすすめたのが、妻のせいだった。

花月の始まり
forever63/iStock/Thinkstock

二人はさまざまな安くておもしろい演芸を提供し、客の心を掴んだ。経営は楽ではなかったが、せいの才覚や努力もあり、どうにか軌道に乗せること1年。吉兵衛は名を泰三と称し、南区笠屋町に吉本興行部の事務所を開いた。寄席のチェーン化に乗り出したのだ。

やがて由緒ある寄席「金沢亭」を買収し、南地花月と改名。その名には「咲き輝くか、散り翳るか、すべてを賭けよう」という夫婦の決意が込められていた。今日の吉本演芸館に受け継がれている「花月」の始まりである。

大阪落語界を統一

人気落語家であった初代桂春団治の引き抜き、のちに花月亭九里丸となる三枡小鍋の発掘など、2人は人材の開拓に力を入れた。そして10年で大阪の寄席のほとんどを支配下に収め、落語界を統一。強大な演芸王国を築きあげた。

また傘下の芸人をすべて専属とし、月給制にすることで、芸人を組織のなかに抱えこむことにも成功した。この専属・月給制度は、現在の吉本にも受け継がれている。

しかし活動写真の登場により、落語の人気に陰りが見えはじめた。安来節に目をつけヒットさせたものの、寄席演芸の新しい流れは生まれず。時代が求める新しい「何か」が必要だった。

【必読ポイント!】漫才の誕生

落語から万歳へ

大正12(1923)年に起きた関東大震災で、東京の寄席の大半が壊滅した。吉本は見舞いを兼ねて高座を失っている芸人たちに会い、来阪の約束を取りつけた。これを機に東京の一流どころが次々と来阪し、吉本の高座をつとめるようになった。東京との強力なパイプができはじめたのはこの頃だ。

しかしそれだけでは大阪の寄席に大きな変化は起きなかった。そんな折、泰三が37歳の若さで急死。せいが吉本の後を継いだものの、実質的な指揮は、せいの実弟である林正之助に委ねられた。

当時25歳の正之助は、万歳(漫才)に目をつけていた。万歳は庶民のなかから生まれたばかりの演芸で、権威や形式がなく、おもしろければ何を演じてもよい自由さがあった。

正之助は興行に何組かの万歳を入れてみた。結果は好評。これに自信を得た正之助は、次々と万歳師を専属に入れて寄席に送りこんだ。のちのスター、花菱アチャコも吉本の専属になった。

万歳の近代化
nito100/iStock/Thinkstock

万歳の近代化をめざすうえで、正之助は横山エンタツに目をつけた。横山のスカウトに成功すると、アチャコと組ませてエンタツ・アチャコを結成。正之助の案で、二人揃って洋服姿で舞台に立たせた。意識的に洋服を着た万歳は、これがはじめてである。

エンタツ・アチャコは互いを「キミ」「ボク」と呼び、日常的な話題をそのまま万歳のネタにした。こうして喋りまくる「しゃべくり万歳」スタイルが誕生した。唄もなければ問答も踊りもなし。はじめは戸惑った観客も、たちまちそのおもしろさの虜になった。

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要約公開日 2018.03.10
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