世界を席巻している人間至上主義は、ここ数世紀の間に育まれた新しい宗教だ。
1300年頃にヨーロッパに住んでいた人々は、善悪や美醜の判断を人間自らが決められるとは思っていなかっただろう。当時それらを定義できるのは神だけだった。
しかし現代社会に生きる私たちにとって、人生や森羅万象の意味を見出すのは自分であって神ではない。人間の自由意志こそが最高の権威であり、頼るべきは自分自身の感情である。こうして感情は私生活だけでなく政治、経済、美的判断、倫理、教育にも大きく影響を及ぼすようになった。
人間至上主義もキリスト教や仏教などのように、発展していくなかで分裂し、3つの主要な宗派に分かれた。
1つ目の宗派は「自由主義」だ。政治でも経済でも芸術でも、個人の自由意志は国益や宗教の教義よりも大きいというのが、自由主義の教義だ。ただしそれぞれの経験を重視するがゆえに、異なる経験をもつ者どうしの矛盾をなかなか解決できないという弱点を抱えている。
2つ目の宗派は共産主義を含む、広い意味での「社会主義」だ。自由主義が一人ひとりの独自性を重視するのに対し、社会主義は他者の感情や自分の行動が他者に及ぼす影響に注意を向ける。社会主義政党や職種別組合といった強固な組織の設立が重視されるのも、人々の意志を一致団結させるためだ。
3つ目の宗派は「進化論的な人間至上主義」である。彼らは人間の対立という課題に、社会主義とは別の解決策を用意する。それはすぐれたものを尊重することだ。その優劣は争いで決めればいい。それが自然選択による進化なのだから――こうして最終的に彼らは超人の誕生を目論む。
こうした立場の違いは当初、些細なもののように思われたが、人間至上主義が世界を席巻すると、次第に内部での対立が深刻化。1914年から1989年の間に、3つの宗派間で凶悪な宗教戦争が次々と起き、最終的に自由主義が勝利を収めた。
自由主義というパッケージが現代において支配的なのは、現存するテクノロジーともっとも相性がよいからだ。新しいテクノロジーは古い神々を殺し、新しい神々を誕生させる。マルクスやレーニンが大きな影響力をもっていたのは、哲学的に高尚だったからではなく、当時のテクノロジーの実情と人間の経験をしっかりと理解していたからだ。そして彼らが勢いを失ったのは、新しいテクノロジーについていけなかったからである。
これと同じように21世紀の革新的なテクノロジーも、これまでになかったような新しい宗教運動を巻き起こすだろう。世界を変えるほどのテクノロジーは大きな恩恵をもたらすだけでなく、前代未聞の問題もまた生み出す。そうした問題に答えを出せる宗教が、その後の世界を支配する。
今後はバイオテクノロジーとコンピューターアルゴリズムの理解が、よりいっそう重要になるはずだ。現時点では自由主義がこれらともっとも相性のいい宗教と思われるが、今後もそうだとはかぎらない。なぜなら自由主義、ひいては人間至上主義は、その根底に脆弱さを抱えているからである。すなわち、そもそも人間に自由など存在するのかという疑問を。
自由主義は科学の発展とともに隆盛してきた。だがいまはその科学が、自由主義の秩序の土台となっている自由意志の存在を疑いはじめている。
現在の科学的理解にしたがえば、「自由」は「魂」などのように実態のない言葉だ。私たちの行動は決断する前にすでに決定されているか、もしくはランダムで決定している。「私たちには単一の、分割不能の自己がある」という言説も、不滅の魂が実在するのと同じ程度の信憑性しかない。
こうした議論自体は2000年前以上からされているが、これまで自由主義者の実存が脅かされることはなかった。「自由な個人などいない」と哲学者が唱えても、あるいは科学者が最新の科学的知見を用いて自由意志の存在を否定しても、その影響力はたかがしれていた。
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