本書の要点

  • 恋人と別れた芙美子は故郷へ向かう。車中で思わず涙するが、窓に映った百面相のような自分の顔に「こんな面白い生き方もあるのだ」とまじまじと見入る。

  • 子爵夫人が不良少年少女を救済しているという新聞記事を読み、自分も救済してもらおうと出かける芙美子。しかし、あえなく追い返されて腹を立てる。

  • 都会の暮らしに疲れた芙美子は外房への旅に出る。自殺を図ろうとするも、雄大な自然や茶屋の老夫婦たちに癒される。すっかり元気になった芙美子は、天下の富士山を前に啖呵を切る。

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秋が来たんだ

淋しくてやりきれない夜

十月×日四角い天窓から、紫色に澄んだ空が見えた。秋が来たんだ。コック部屋でご飯を食べながら、私は遠い田舎の秋を懐かしく思った。今日はなぜか人恋しくてやりきれない。私は雑誌を読むふりをして、色んなことを考えていた。なんとかしなければ、自分を朽ちさせてしまう。広い食堂の片づけを終えると、ようやく自分の体になった気がする。心から何かを書きたい。毎晩そう考えながら部屋に戻るが、一日中立ちっぱなしで疲れていて、夢も見ずに寝てしまう。住み込みは辛いから、そのうち通える部屋を探そうと思うが、外に出ることもできない。夜、寝てしまうのが惜しくて暗い部屋の中でじっと目を開けていると、溝からチロチロ虫の音が聞こえる。冷たい涙が不甲斐なく流れて、泣いたらだめだと思いながらも、込み上がる涙をどうすることもできない。女三人、古い蚊帳の中で枕を並べている姿は、店に晒されている茄子のようでわびしい。「虫が鳴いているよ……」。隣で寝ているお秋さんにそっとつぶやくと、「こんな晩は酒でも飲んで寝たいね」と返ってきた。何か書きたい。何か読みたい。冷や冷やとした風が蚊帳の裾に吹いてきた。

かたつむりのように

zu-kuni/gettyimages

十月×日ここに来て二週間、同僚は二人。お初ちゃんという子は名前のように初々しくて、銀杏返しがよく似合う可愛い子だ。「私は四谷で生まれたのだけど、十二の時よその叔父さんに満州に連れられて、じきに芸者屋に売られたのよ。そこの桃千代という娘と、よく広い廊下をすべりっこしたわ。まるで鏡みたいにつるつるだった」客が飲み食いして帰った後、お初ちゃんはテーブルにこぼれた酒で字を書きながら、重たい口でこんな話をした。もう一人は私より一日早く入ったお君さんで、母性的で気立てのいい女である。こんなところで働いている女たちは、はじめは意地悪くてコチコチに用心しているけど、一度何かのはずみで真心を見せると、すぐに十年の知己のような、まるで姉妹以上になってしまう。客が途絶えると、私たちはよくかたつむりのようにまあるくなって話をした。

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要約公開日 2023.07.29
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