「ありそでなさそでやっぱりあるもの」。それは、「哲学がずっと考え続けてきた中心主題」である。その意味で本書は哲学の長い歴史と共通の問題を追うが、有名な哲学者が紙面に登場することはほぼない。そうした人たちを解説するものはこれまでたくさんあったからだ。本書では、デネット、ミリカン、ドレツキ、ペレブームといった、あまり知られていない哲学者を取り上げている。
その哲学は、「科学の成果を正面から受け止め、科学的世界像のただなかで人間とは何かを考える」ことを推し進める。そうした同時代の哲学者たちの思考を手掛かりにして、哲学の中心問題に迫っていく。
では、そもそも「ありそでなさそでやっぱりあるもの」とは何なのだろうか。その代表である「意味」についてまずは考えてみよう。
私たちは自分の言葉に意味があると思っているし、「意味している」いろいろなものに囲まれている。しかし、「この世は究極的には何種類かの素粒子が相互作用しているにすぎない」などと教わったりもする。だから物質である脳の働き、心も、複雑な化学反応の現れにすぎないというように考える。これを唯物論、あるいは物理主義という。
唯物論から世界を見てみると、物理的相互作用ではない「意味する」というものが疑わしくなる。日常的立場では当然に感じていたものが、唯物論で見つめ直すと「なさそうなもの」に思えてくるのだ。哲学はこうした「不思議をあらわにする問いを問う力」を持つ。
ありそうでなさそうなものは意味以外にもたくさんある。情報、目的、機能、価値、道徳、意志の自由、美、人生の意味などだ。これらは、岩や水のように質量のような物理量をもたないし、触れることもできない。では、それなしで済ませられるかというとそうでもない。このようなものを、ここでは「存在もどき」と呼ぼう。
この「存在もどき」の問題を扱う考え方としてかつてはよいものと思われていたものに、二元論がある。「物理的対象と物理的相互作用からなるモノの世界」と、「存在もどき」を含む世界を分けて、科学と棲み分けを図ろうとしたのだ。しかし現代は、科学が「ココロの世界」を浸食してきている。怒りっぽいという「性格」や「人格」も、ホルモンバランスなどの神経科学的な用語やゲノムレベルの話での説明ができてしまうのだ。
世界を交わらない2つのものと考えるのは思考放棄ですらある。著者は唯物論者として、存在もどきをモノだけの「一枚の絵」に描き込もうとしているのだ。そのために、「存在もどきはこの物理的世界に最初からあったわけではない」し、「この世界の中でだんだんに湧いて出てきた」という枠組みを採用する。
本書はこの議論のためにコアとなる、表象の進化を先に検討しているが、要約では、そのエッセンスを取り入れた描き込みの部分を紹介したい。すなわち、これまで科学では扱えないと思われていた「自由」「道徳」についての考察である。
石やカエルに自由はない。しかし、人間には自由があり、それには価値がある。人はそう信じて疑わない。それは本当だろうか。そもそも「自由」とは何だろうか。どうして私たちにとって大切なのだろうか。
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