読書をめぐって、強い影響力を持つ規範はいくつもある。その中でも以下の3つは決定的なものだ。第1は、「読書義務」とでも言うべきもので、「重要な本は読んでいるべき、読んでいないことは許されない」という規範である。第2は「通読義務」とでも言うべき規範であり、「本を読む際は流し読みや飛ばし読みをしてはならず、すべてを読まなければならない」という規範である。第3に、本について多少なりとも正確に語るためには、その本を読んでいなければならないという規範である。
こうした規範のしがらみを解消した上で、本書は読んでいない本についてコメントを求められたときのテクニックを提案する。さらにそうした状況の分析にもとづいて、ひとつの読書理論の構築を行う。
「読まない」ことの究極の状態は、本を一冊も開かないことだろう。しかしこれは、あらゆる読者がおかれた状態に近い。なぜならば、存在するすべての本を読むことは不可能であり、どれほどの読書家でも読める本には限りがあるからである。
ゆえに教養があるかどうかは、なによりも自分を方向づけられるかどうかにかかっている。教養ある人間はこのことを知っているが、不幸なことに無教養な人間はこれを知らない。教養があるとは、全体のなかで自分がどの位置にいるかがわかっているということである。それはすなわち、諸々の本はひとつの全体を形作っているということを知っており、その各要素を他の要素との関係で位置づけられるということである。教養ある人間は、特定の本を読んでいなくても別にかまわない。内容は知らないかもしれないが、その位置関係はわかっているからだ。ある文化の方向性を決定づけている重要書の見取り図を描けるかどうかが、書物について語る際には決定的に重要なのである。
本をまったく読まないとまではいかなくても、ざっとしか読まない人は少なくないだろう。そのように流し読みしかしていなくても、本について語ることはできる。それどころか流し読みは、本をわがものとするもっとも効果的な方法かもしれない。
書物を読むとき、そこには他者に従属する危険性がある。教養というものは、他人の書物にのめり込む危険をはらんでいる。そしてみずから創造する者としてふるまうためには、この危険を回避しなければならない。
文学について考察しようとする真の読者にとって、大事なのはある特定の本ではなく、他のすべてを含めた全体像である。単一の本にばかり注意を向けていると、この全体を見失う危険が出てくる。あらゆる本には、大きな法則や観念に関係する部分がある。それを見逃すと、その本自体を深く捉えることもできない。
読書は時間のなかで推移する。つまり読書を始めた瞬間から、読者は読んだことを忘れはじめる。この場合、「ある本を読んだ」と言うことは、ほとんどひとつの比喩である。
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