私はその人を常に先生と呼んでいた。先生と出会った時、私はまだ若々しい書生であった。暑中休暇を利用して滞在していた鎌倉の掛茶屋で、先生を見つけ出した。先生に目を引かれたのは、先生が一人の西洋人を伴れていたからである。私は興味本位で先生たちが泳ぎにいくのを見つめ、翌日から先生に会った時間を見計らって掛茶屋に行くようになった。
あるとき先生が落とした眼鏡を私が拾い上げたことをきっかけに話しかけ、一緒に泳ぐようになった。話の流れで思わず「先生は?」と呼びかけたのが、先生という言葉の始まりである。
先生と懇意になったつもりの私は、避暑地を引き上げる時、先生のお宅に折々伺ってもよいかと尋ねた。先生の返事はごく単簡であった。こうしたことで私はよく先生から失望させられた。先生が亡くなった今日に思い返してみると、先生の冷淡な態度は、私を嫌ってのことではなく、自分は近づくほどの価値のない人間であるから止せという警告だったのだろう。
授業が始まって一カ月ばかりして先生の宅を訪ねると、先生は留守であった。二度目に行った時も先生は不在で、奥さんが毎月その日になると雑司ヶ谷にある墓に参る習慣なのだと教えてくれた。私は散歩がてら、雑司ヶ谷に行ってみる気になった。
墓地で声をかけると、先生は「どうして」と言葉をつまらせ表情を曇らせた。先生はその日、あすこにあるのは友達の墓だとだけ語った。
先生は学問があるが仕事には就かず、不可解な言動が多かった。私が月に二、三度、先生の宅へ行くようになったころ、先生は「私は淋しい人間です」と言い、なぜそうたびたび来るのかと問うた。先生は私の来るのを喜んでいるが、今に失望されて来訪がなくなるだろうともいった。
私の知る限り先生と奥さんとは仲の好い夫婦であったが、子供はいなかった。先生はそれを「天罰」のためだという。そして自分たち夫婦を「最も幸福に生れた人間の一対であるべきはず」という先生の言葉が私の耳には異様に響いた。
奥さんによると、先生の性質が段々こんなふうになってきたのは、先生とたいへん仲の好い友達が、大学卒業前に変死してからだという。
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