技術屋の王国

ホンダの不思議力
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ホンダの不思議力
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出版社
東洋経済新報社

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出版日
2017年09月14日
評点
総合
4.0
明瞭性
4.0
革新性
4.0
応用性
4.0
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おすすめポイント

ホンダは、二輪やF1レースで世界の頂点にのぼりつめ、自律型二足歩行ロボットASIMOや航空機ホンダジェットなど「世界初」といえる技術や製品を生み出した企業として名を馳せている。しかし、企業規模や自動車の販売台数からみるとトヨタやGMよりもずっと小さく、研究開発費用も潤沢ではない。それにもかかわらず、最先端技術分野で成果を生み出しているホンダ。その研究開発力は、著者の言うとおり「不思議力」と呼べるものかもしれない。

本書は航空機ホンダジェットに着目し、開発当初から現在までをまとめている。自動車メーカーのなかで、航空機メーカーを兼ねているのはホンダだけである。また、航空機メーカーの中でもエンジンと機体の両方を手掛ける企業は極めて珍しい。ホンダはまさにユニークな存在である。

ホンダの開発の背景や基盤にあるものは何か。本書で描かれているホンダジェットの開発の軌跡にふれると、その一端を知ることができる。企業理念や企業風土、研究開発に携わる社員たちの個性や信念など、さまざまな要素が絡み合っているのである。

ホンダジェットの開発は、決して順調に進んだわけではなく、途中でさまざまな壁にぶつかったという。上司に隠して「闇プロジェクト」として続けた研究もあり、それが後に突破口となったケースもある。たいていの企業は利益や成果につながるかどうかわからない研究開発に投資できないだろう。しかし、ホンダは挑戦を続ける。ホンダが持つ不思議力のすごさをぜひ味わってみてほしい。

ライター画像
河原レイカ

著者

片山 修(かたやま おさむ)
経済ジャーナリスト、経営評論家
愛知県名古屋市生まれ。2001年~2011年までの10年間、学習院女子大学客員教授を務める。企業経営論の日本の第一人者。主要月刊誌『中央公論』『文藝春秋』『Voice』『潮』などのほか、『週刊エコノミスト』『SAPIO』『THE21』など多数の雑誌に論文を執筆。経済、経営、政治など幅広いテーマを手掛ける。『ソニーの法則』(小学館文庫)20万部、『トヨタの方式』(同)8万部のベストセラー。『本田宗一郎と「昭和の男」たち』(文春新書)、『人を動かすリーダーの言葉 113人の経営者はこう考えた』(PHP新書)、『なぜザ・プレミアム・モルツは売れ続けるのか?』(小学館文庫)、『奇跡の軽自動車――ホンダはなぜナンバーワンになれたのか』(PHPビジネス新書)、『サムスン・クライシス』(張相秀との共著・文藝春秋)、『社員を幸せにする会社』(東洋経済新報社)、『ふるさと革命――“消滅”に挑むリーダーたち』(潮出版社)など、著書は60冊を超える。中国語、韓国語への翻訳書多数。

本書の要点

  • 要点
    1
    自動車メーカーのなかで、航空機メーカーでもあるのはホンダだけである。また、航空機メーカーの中でエンジンと機体の両方を手掛けている企業は他にない。
  • 要点
    2
    ホンダの航空機エンジンや機体の開発は、設計の経験者がいない状態から出発した。そして、航空機メーカーにはつくれない航空機の製造が実現した。
  • 要点
    3
    ホンダの開発力を支えたのは、強烈な「個」を持つ異能の存在と、その「個」を尊重し、徹底的に生かしきる風土である。

要約

創業者の夢から社員それぞれの夢へ

航空機のエンジンと機体の両方を手掛けるホンダ

ホンダは、1円も利益をあげない航空機の研究開発を続けてきた。30年のときを経て、完成したホンダジェットは、事実上の国際標準となっている型式証明を取得した。航空機史上に歴史的なマイルストーンを築いたといってよい。

ホンダはもともと、飛行機開発のノウハウがゼロだった。世界には数多くの自動車メーカーがあるが、航空機メーカーを兼ねているのはホンダだけだ。また、民間の航空機産業では、エンジンメーカーと機体メーカーが別々に存在するのが常識だが、ホンダは両方を手掛けている。これも世界に例がない。

ホンダジェットの成功について、世間一般の人々は、創業者である本田宗一郎の夢をホンダの社員たちが引き継ぎ、実現させた物語として見ている。しかし、実際に開発に携わった社員たちは、創業者の夢をかなえるという思いだけで続けてきたわけではない。航空機の開発は失敗と挫折の連続であり、携わった人それぞれにとっての、「夢の実現」をかけた闘いだった。

飛行機に魅力を感じていた創業者
Choreograph/iStock/Thinkstock

1914年、静岡県浜松市。当時8歳だったホンダの創業者、本田宗一郎は、米飛行士が操縦するカーチス製の複葉機を見た。それが宗一郎と飛行機との出合いだった。飛行機を見たいがために、父親の自転車を借りて20キロ以上離れた練兵場に出かけるほど、その魅力に取りつかれた。

宗一郎は1946年に本田技術研究所を開設し、自転車用補助エンジンを製作した。さらにはモーターサイクルの開発を進め、企業として急速に発展する。オートバイレース世界最高峰「マン島TTレース」に出場し、1961年には125ccクラス、250ccクラスともに、1位から5位までを独占し、世界一を経験した。さらに60年代はF1レースにも参戦した。レースに勝つには、精神的な鍛練と技術の向上が求められるうえに、世界一になったからといって業績に貢献できるわけではない。にもかかわらず、ホンダの社員たちは「やればできる!」という精神で挑戦した。こうした企業風土が、ホンダの航空機開発の基盤となった。

ホンダは、1962年に航空機の設計に携わる人材を募集するようになった。ただし、これは単に創業者の夢の実現をめざしたものではなかった。ホンダは航空機産業に日本の産業の未来を見ていたのだ。しかし、その後、ホンダの経営環境は四輪に集中せざるをえない状況となり、いったんは航空機開発から遠ざかることとなった。

【必読ポイント!】 航空機エンジンをゼロから開発

基礎研を立ち上げ、開発を開始
Frank Peters/iStock/Thinkstock

飛行機開発の系譜が途切れて22年後の1986年。ホンダは基礎技術研究センター(以下、基礎研)を立ち上げる。研究テーマの一つは航空機開発だった。

基礎研の生みの親・川本信彦は、井上和雄に航空機プロジェクト全体の統括責任者になるよう声をかけた。井上は伝説の技術者、ホンダジェット開発の第一のキーパーソンである。井上は、部下たちに「カミソリみたいな人」と恐れられる存在だった。強いオーラを放ち、独裁的で、我が道を突っ走るタイプのため敵も多かった。

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要約公開日 2018.02.13
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