世界の人口は、何千万年もかかって1800年代に10憶に達した。そこからたった200年で70憶に達し、現在は増加に急ブレーキがかかっている。本書は、人口動向に大変革が起こったこの200年に注目する。
急激な人口増加の発端となったのは、1800年頃のブリテンで起きた産業革命だ。技術の発展は衛生状況や教育レベルを底上げし、多くの命が救われるようになった。
この動きは世界中に広がり、多くの国で乳児死亡率と出生率、病気などによる死亡率が低下し、加えて平均寿命も延びた。人口学では、合計特殊出生数(一人の女性が生涯で生む数)や年齢の中央値などさらに多くのデータを使って、社会の様相を捉え、そこにある個人の生活に迫る。
トマス・マルサスの『人口論』では、人口増加が土地の生産力を追い越せば、飢饉や戦争などの悲惨な状況と大量の死が起きるとされた。この予測を「マルサスの罠」という。しかし、生産物を世界市場で売り、世界中の土地から食料を調達できるようになったブリテンは、自国の土地に収まりきらなかったはずの人口をどんどん増やすことができた。公衆衛生や個人の健康状態は向上し、出生数は死亡数を上回った。この人口増と産業の発展が絡み合い、都市化と工業化が一気に進んだことが、ブリテンのその後の拡大の基礎となった。そして、自国内で溢れたブリテンの人々は、どんどん移民として他の土地へと移っていく。
国の人口規模が経済規模に影響を与えるには、二つの道筋がある、と著者はいう。一つは、単純に数の力だ。そしてもう一つは、自由貿易圏に入り、貿易を通じて広く世界とつながることである。ブリテンの経済はこの両方が相乗効果を発揮して拡大していった。
一方、1871年に統一を果たしたドイツでも、イギリスの敷いたレールの上をたどるように急速に工業化、都市化が進んだ。それに伴って人口も急増していった。
ロシアは他のヨーロッパ諸国の追随をゆるさない人口をすでに抱えていた。まだまだ物質的には貧しく、工業化も遅れてはいたが、それでも鉄道が敷かれ、食料供給も改善しつつあり、基本的な公衆衛生もあった。
こうした背景のもと、ブリテンを中心として社会的ダーウィニズムの考え方が広がり、優生思想の萌芽も生じた。人口減少を認め始めたブリテンは、自国の民族構成も問題視し、国家の「質」が下がることをおそれた。当時の著作からは、ブリテンがそうした感覚から人口が増加しているドイツを警戒し、ドイツも同様にロシアを懸念していたことがうかがえる。第一次世界大戦が始まった原因となったのは人口問題だけではないが、人口問題が国際的緊張の要因のひとつであったことは間違いない。
第一次世界大戦は数が物を言う消耗戦であった。兵士を補給し続けるためには、人口が大きな意味をもっていた。それは大規模工業と大規模軍隊のぶつかり合いであった。
第一次世界大戦とスペインかぜにより多くの死者が出たが、ヨーロッパでは全体としてはゆるやかに人口が増加し続けた。都市への移住が進み出生数は低下していたが、長期的にみれば死亡数は急激に減少していた。そして、アメリカ合衆国の移民制限策が影響し、ヨーロッパから移民として出ていく数も急落していた。
ただ、この時期の非ヨーロッパ人の増加は
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