私たちは説明責任(アカウンタビリティ)の時代を生きている。「透明性」を通じて、それらの測定基準を公表することが美徳とされる時代に。説明責任は本来、「自分の行為に責任を負う」という意味のはずだ。しかしいまは「標準化された測定を通じて成功を見せつける」という意味に変わってしまった。
測定基準への執着は、実績を測定し、公開し、報酬を与えなければいけないというプレッシャーから来ている。問題は測定基準そのものではなく、測定基準への執着(「測定執着」)にある。測定執着は、「個人的経験と才能にもとづいて行われる判断は、データにもとづく指標に置き換えられるのが可能であり、望ましい」「そのような測定基準を透明化することで、組織が説明責任を果たしている」「それらの組織に属する人々への最善の動機づけは、測定実績に報酬や懲罰を紐づけることである」という信念によってもたらされる。
測定基準を満たした場合に金銭的なインセンティブを提供することは、利益を生むことが唯一の目的である組織ならばうまくいくかもしれない。しかし教育機関や医療機関など、もっと理念的なミッションを帯びた組織ではうまくいかない。測定され、報酬が与えられるものは、すべて改竄されうるからである。
測定基準にはいくつもの欠陥がある。「一番簡単に測定できるものしか測定しないこと」、「成果ではなくインプットを測定すること」、「標準化によって情報の質を落とすこと」などが典型例だ。
また測定基準の改竄の形として、「上澄みすくいによる改竄」が挙げられる。これは現場の人間がより簡単に達成できる目標を見つけ、達成が難しい目標を排除してしまう現象を指す。
「基準を下げることで数字を改善する」というケースもある。高校や大学の卒業率を上げるために合格点を下げたり、航空会社が定時運航の実績を改善するためにフライト時間を長く設定したりすることが、これに当てはまる。
さらには「データを抜いたりゆがめたりして数字を改善すること」、より単純に言えば「不正行為」も発生する。
測定基準はこんなに欠陥があるのに、どうしてこれほど人気なのだろうか。明確な答えはないが、いくらか推測はできる。
まずエリート層が属する能力主義社会では、判断の基盤とするために、一見客観的に思える基準が求められる傾向にある。そのとき数字は客観性があるような空気を醸し出し、主観的判断を排除しているかのような印象を与えてくれる。
1960年代以降、アメリカでは権力への不信感が蔓延している。そうした中で、説明責任のための測定基準は魅力的に映った。とくに非営利部門(政府、学校など)では純損益がないことから、成功や失敗を測る手段がなく、客観的な測定基準が求められていた。こうして説明責任の名のもとに、多くの分野で測定基準が導入されたのだ。
大きな組織は複雑で、さまざまな構成要素から成り立っており、すべてを理解することは不可能だ。ゆえにそのトップにいる人々にとっては、「数字」を使うのが組織を理解するうえで、一番の近道のように映る。経営陣はさまざまな戦略を通じて部下を管理したがるが、そのとき測定基準は中心的な要素となる。
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