明治二三(1890)年、『西郷南洲翁遺訓』は旧庄内藩(山形県鶴岡市と酒田市一帯)の藩主であった酒井忠篤とその家臣たちによって編纂・発行された。なぜ西郷の出身地薩摩から遠く離れた庄内藩でこの本が生まれたのだろうか。
時は幕末、浪士たちが江戸中を撹乱しては薩摩藩邸に逃げ込むことを繰り返していた。徳川幕府から江戸市中見回りの命を受けていた庄内藩は慶応三(1867)年、「テロの巣窟」である薩摩藩邸を焼き討ちにする。この件で薩摩藩では浪士を入れて64名が命を落とした。
明治元(1868)年、戊辰戦争も終盤の頃、幕府方の庄内藩は薩摩藩を中心とした新政府軍を迎え撃ち、善戦の末降伏した。焼き討ちの遺恨により庄内藩主と重臣たちは切腹を覚悟したが、参謀の黒田清隆は終始庄内藩主に礼儀を尽くし、重臣たちにも寛大な処遇をした。後に、この処遇は西郷隆盛の指示によるものと判明した。
感激した酒井忠篤は西郷隆盛に親書を送り、明治三(1870)年には藩主以下70数名が鹿児島を訪れた。彼らは西郷から兵学を学び、その後何度も西郷と接する機会を持った。そして折に触れ、西郷が語った言葉を帳面に書き写したり覚えたりした。
この庄内の旧藩士たちによる一連の聞き書きが、『西郷南洲翁遺訓』となったのだ。
『西郷南洲翁遺訓』の内容をひとことで説明すると、「上に立つ指導者の徳をみがくための教え」である。この教えの根本にあるのは儒学の『大学』だといわれる。
儒学はもともと支配者の学問である。いかに天下国家をよく治め、人々に平和をもたらすかということである。『西郷南洲翁遺訓』はリーダーシップをとるべき人のよい指南書として、その後も長く読み継がれていった。
幕末~維新にかけては世の中がめまぐるしく変化し、ニューノーマルな局面が出現した。このような時代においては、スピーディーで強い意思決定が求められる。西郷隆盛はそうした修羅場をいくつもかいくぐってきた。この本には、待ったなしの状況で決断を下してきたリーダーとしての見識が詰まっている。上に立つ者が迅速に決断すべき場面は、現代のビジネス環境にも通じるだろう。
『西郷南洲翁遺訓』には、有名な「敬天愛人」を含め「天」という言葉が随所に出てくる。「天」とは人智の上にある存在、自然の道理といった幅広い解釈ができる。しかし同時に、単なる理想論にとどまらず、私たちが日々向き合う問題にどう取り組めばいいかという、具体的な方法論も示している。
次からその内容を紹介していこう。
重要な役職や地位にある者は、わずかでも私心をさしはさんではならない。自身のことはもちろん、出身地や出自が有利になるよう取り計らうなどもってのほかだ。どんなことがあっても心を公平にすること。そして、天の道理を実践することが重要だ。この心がけを持って、日本中から広く有能な人材を選ばなければならない。それが天の意思である。
もし有能な人物を見つけたら、すぐにでもその人に役職を譲る気構えを持たねばならない。どれほど過去に功労があったとしても、その褒賞として官職に就かせることはよくない。その人物に才能がないならば、なおさらである。
重要な官職というものは、その任に耐えられるだけのすぐれた人物に任せるべきである。維新などの功労者には、官職ではなく俸禄を授与して報いるのがよい。
人の上に立つ者は、民の手本となることが求められる。どんな時も慎み深く、品行を正しくすること。おごりたかぶったり、偉そうな態度をとったりしてはならない。また、つねに倹約につとめ、職務に懸命に励むべきだ。
しかし、これだけでは十分でない。
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