生きがいについて、もっとも正直なものは感情だろう。心の中にすべてを圧倒するような、「腹の底から」湧き上がる強いよろこび。これこそが、生きがい感の最も素朴な形だろう。
人間の活動の中で真のよろこびをもたらすものは、目的、効用、必要、理由などと関係ない「それ自らのための活動」であるという。ただ「やりたいからやる」ことのほうが、いきいきとしたよろこびを生む。
よろこびには「利他的な気分を生みやすい」という特徴がある。生きがいを感じている人は、他人に対しても恨みや妬みを感じにくく、寛容でありやすい。自分より幸福な人々に対して、憎しみの念が入り込む余地がないからだろう。
生きがい感には幸福感よりも「一層未来にむかう心の姿勢」がある。現在の生活が暗たんとしたものであっても、将来に明るい希望や目標があれば、それに向かう道程としての現在に生きがいを感じられるだろう。逆に今の生活が幸せでも、その幸福感が自分の使命感を鈍らせるのなら、自我の本質的な部分では苦痛をおぼえることもある。
生きがい感は幸福感と比較して、より自我の中心に迫っている。どんなに苦労の多い仕事でも「自分でなければできない仕事である」と感ずるだけで、人は生きがいをおぼえる。生きがい感には「ほかならぬこの自分が生きている」意味や必要をもたらす、自我感情が含まれているのである。
長い一生の間には、ふと立ち止まって自分の生きがいや存在意義について思い悩むことがある。人間が最も生きがいを感じるのは、自分がしたいと思うことと義務が一致したときだろうが、これは必ずしも一致しない。
自分という存在の必要性や生きていく目標、生きる資格、人生そのものの意義について考えるとき、ある価値基準が前提となる。この基準は、幼年時代の社会的環境に基づくという考えもあるが、それほど簡単なことではない。人間が成長していく過程では、病気や死、別の生活圏を生きる人との突然の出会いなどを通して、まったく違った価値体系がもたらされることがある。人間は白紙の状態で周囲から提供されるものを受け入れるのではなく、多少なりとも主体的に自分にぴったりなものを選択しているはずだ。どんなに立派な世界観や思想でも、受け入れる人の心の中に必然性をもって組み込まれなければ、それは借りものにすぎない。
大人になると生存の意味を問うことを忘れ、ただ流されて生きていくような人が多い。しかし年をとってそれまでの生きがいが失われたとき、この問題は再び心を占める。「これから何の生きる喜びがあるだろう」と問う姿には、青年たちのそれとは違った切実さがある。
生きがい感を最も感じられる人は、使命感に生きる人である。使命感というものは、はじめは漠然としていて、具体的な形となるまでに年月を要することも少なくない。ナイチンゲールは6歳の頃よりそれに悩んできたが、進むべき道を見出したのは25歳、実際に道がひらけたのは34歳の時であった。
シュヴァイツァ(ノーベル平和賞を受賞した医師、哲学者)も、はじめて使命感に目覚めたのは21歳の時である。幸福な境遇で育ったシュヴァイツァは、若い頃より学問や音楽の分野で名声を得ていたが、28歳の頃に「すべきこと」を探り始めている。彼は孤児の世話や免囚保護事業などいろいろ試みた後、コンゴ医療伝道の道へと向かう。模索する中で、団体との協力によってはじめて最善となる仕事ではなく、個人的で独立的な活動を一人で、自由な立場でやりたかったことに気づいたそうだ。
この方向転換は周囲から狂気の沙汰と思われていたが、シュヴァイツァの価値基準からいえば、使命の遂行が最優先事項であった。使命感に生きる人にとって、問題は自己に忠実な方向に歩いているか否かであり、これに反すれば安らかに死ぬことすら許されないのである。
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