明治の開国以降、日本には「みんな」が一緒にがんばる「集団主義」をよしとする空気が続いている。結果を急ぐがゆえの集団主義は、同調圧力となり、社会に深く浸透したままだ。「個性」の尊重が叫ばれてはいるものの、本当の意味で「多様な個」が尊重される土壌はいまだできていない。そもそもみんなが口をそろえて「多様性が大事だ!」と叫んでいる状況自体、多様性があるとは思えない。
急激な近代化によって国を繁栄させようと集団で奔走した時代から、すでに100年以上が経過した。インターネット社会はアイディアや発想の勝負だといわれ、常に変化を求められる状況になった。
グローバル化は世界の市場をつなげ、多くの国が工業化を達成した。経済競争では、サービスや情報、ブランドイメージなどの重要度が増している。こうした競争は豊かさをもたらす半面、個のあり方や心を蝕んでいる。これからのビジネスは、人々の精神を奪い合う競争とさえいわれているのである。
人の精神や心までが「商品」となっている現在、人の感情までもが使い捨ての「消費財」となる怖さがある。
物質的に豊かではなかった時代、人々はお金でテレビや洗濯機などのモノを買うことで満足していた。モノが満ち足りた今、人々は「心を動かされる感動体験」にお金を払うようになった。ゲームやアプリ、マンガやアニメ、キャラクターなどの「楽しい、すっきりする、感動できる」商品に多くのお金を使っている。
「心」や「感動」という商品の価値は、人の主観に大きく依存する。一時的な高揚感や熱狂が商品となってその商品価値を高めると、市場での価格が吊り上がり、価格の上昇そのものが価値を示すという現象に至る。現代のネット社会で広がる「感情」という商品は、不確かな「心」が生む「言い値」となりやすい。いつも冷静に、自分にとってのその商品の価値を見極めるのは困難だ。ここに、自分を見失いやすいという落とし穴がある。
「体験」や「共感」という商品を手にした買い手は、感情を消費するだけでなくその思いをネットで拡散させ、市場へ影響を与えていく。体験や喜びなど、人生における「かけがえのないもの」にもなり得る感情はいつの間にか市場に飲み込まれ、「交換可能」なものに置き換わり、すべて「商品」や「消費財」となる。心を商品にするこうした社会の中では、自らの価値観を持つことが重要なのだ。
「人真似」だけでは幸せになれないが、かといって「人真似」をしないことは難しい。「人真似」には、周囲の空気や流れに迎合してしまうことも含まれる。その場の空気に逆らわない人真似は、一見楽だからこそ、繰り返すうちに「自分」を失ってしまう。自分への小さなごまかしが積み重なれば、無自覚のうちに自分を信じられなくなり、自分を嫌いになってしまう。これは、もっとも恐ろしいことだ。
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