仏教は神様に祈りを捧げたり、仏にすがったりする宗教ではない。仏教のテーマは「心」だ。「自分の内側にある思いを見つめ、抱えている悩みや苦しみを少しでも減らし、明るく生きられるように努めていくこと」がブッダの説いた教え、すなわち仏教である。
仏教は、神様ありきではなく、自分ありきで成立するものであり、そこがほかの宗教とは大きく異なる点だろう。人間には欲望があり、これが大きくなると苦しみも大きくなるとブッダは気づいた。
人々は、欲望が満たされると幸せになれると思っているが、ひとつ手に入れても、その他もほしくなり、他人とくらべて、もっとほしがってしまう。それは苦しみを増長させもする。
「苦しみの原因を外に求めている限り、それが消えることはなく、幸せになることもできない」とブッダは発見した。そして、本当に幸せになりたければ、自分の内側(心)に目を向け、思いを整えていく必要があると説いた。つまり、「自分の心の壁」を乗り超えていくことができれば、抱えている悩みを手放し、もっとおだやかな心で生きられるということだ。
すべての苦しみは、自分の内側で生まれる。自分の心こそ、苦しみの製造工場である。
その原因になるものとして、まず“自我”がある。自我とは本能的なもので、絶対に拭い去れない情動のひとつだ。
この世で最も尊重されなければならないと信じてやまない存在、すなわち「私」が脅かされた場合に、本能的に守ろうとする。この防衛本能が「我(自我)」である。
「我」の他に、「他人と比較してしまいたくなる衝動」も苦しみを生み出す原因である。これを仏教では「慢」と呼ぶ。この2つをセットにすると「我慢」となるが、仏教用語としては、「我」も「慢」も良くない意味合いで使われる。
「慢」は、「自分はこの人よりも優れていると考えること」「自分とこの人は同じくらいであると考えること」「自分はこの人よりも劣っていると考えること」の大きく3つに分けられる。
人間は誰もが無意識下でこの思考に支配されており、この心の動きが「羨み」「嫉妬」「軽蔑」などの苦しい感情を生み出す。
「慢」は無意識に働き、完全に捨て去ることができない。そのため、自分が「慢」に支配されている状況に気づき、それをセーブしていかなければならない。
「我」「慢」などの感情を、仏教では「煩悩」と呼ぶ。煩悩がネガティブな感情をもたらし、それを促進する3つの要素に「貪(とん)」「瞋(じん)」「痴(ち)」がある。これらは、人間の肉体と精神、さらに人生さえも台無しにする「三毒」である。
まず、「貪」とは「欲」のことであり、人やもの、社会的地位などをほしい、求めていきたい、などと願う衝動、エネルギーのことだ。「瞋」は「怒り」であり、「貪」とは反対に、何かから離れたいと望むエネルギーである。嫌いだから遠ざけたいのに、遠ざけることができず、怒る、というイメージである。最後に、「痴」は「無知」のことであり、智慧がないためにどうするべきかわからず、心身ともに不安定になり、愚行に走るなどの心境である。
「欲(貪)」が満たされないから「怒り(瞋)」が生まれ、「無知(痴)」でその怒りの鎮め方を知らない。無知で現実や自分の本質を理解できないため、新たな欲が生まれる――。このように貪・瞋・痴の無限ループにはまらないように生きるためには、智慧を身につけなければならない。
「怒り」は他者から「攻撃を受けた」と脳が判断したときに生まれ、生きものが生き延びていくために必要なものだ。しかし、「家族の態度に腹が立つ」「恋人などに裏切られた」などの怒りは生命を脅かすものだろうか。そうでなければ、本当は持つ必要のない怒りなのである。
人に裏切られた、不利益を被ったと思うのは、その人は裏切らない人、自分に不利益を与えない人だと、勝手に思い込んでいた=妄想していたからである。自分のなかの価値観や、勝手に信じていることを否定されたと思ってしまう――。これが、心のなかにある怒りの正体である。
生きものは怒りを捨て去ることはできず、生存本能として「必要な怒り」もある。ただ、この「妄想による怒り」に支配されると、心身を病んでしまうことにもなりかねない。そのため、不要な怒りにとらわれないように訓練が必要となる。
怒りの炎は放っておくと簡単には消せなくなるため、火事の予防策と、発生後の初期消火が大切である。大前提として、「人生は自分の思いどおりになることはほとんどない」「他人は自分の思いどおりにならない」ということを心に留めておこう。
それでも怒りの火がついてしまったら、“燃料”になるものを投下しなければ長続きすることはない。対象が物であればそれを遠ざけ、対象が人であればその場から離れることが最善である。
怒りの延長線上には「憎しみ・恨み」そして「嫌悪」が存在する。対象を退けたい、反発して遠ざけたいと思う感情だが、この嫌悪にも、避けられないものと避けるべきものがある。
例えば、ヘビやムカデに遭遇した場合、多くの人は驚いて、「嫌だな」と思うだろう。なかには毒を持ったものも存在するため、これは外敵から身を守るという面では正しい感覚である。そして、生き延びるために必要な感覚であるため、意識的に手放すことはできない。
しかし、それ以外の、主に他人に対して抱く嫌悪は、捨てたほうがよい嫌悪である。「あいつは嫌なやつだ」「あの人とは価値観が合わない」などは、生理的ではなく、人間の社会的動物化が進み、脳が発達したために生まれた嫌悪だ。
「あの人と自分はここが違う」という事実を認識するだけでよく、その後に好き嫌いをはっきりさせる必要はないのである。
具体的な問題はないが、なぜか不安になることがある。不安は未来に対して想像力を働かせたときに生まれるものだ。
未来を予測して対策を講じることは危険回避に必要だ。不安にも持っておいたほうがよいものと、持っていても意味のないものがある。
例えば、「試験に合格しなかったらどうしよう」と不安になり、一生懸命に勉強する。これは目標へ向かう活力になっているため問題ない。しかし、「なんとなく不安」だが、すべきことがわからず、毎日を元気なく過ごしている。これは持っていても意味がない。
不安を感じたときに大切なのは、自分が感じる不安の対象を明確にして、その解消に向け具体的に行動することだ。また、必要のない不安が新たな不安を呼び込み、それが恐怖へと変わることが一番良くない。
恐怖の感情が優位になると理性が働かなくなってしまう。理性を取り戻す手段として有効なのが瞑想である。一日一回、自分の内側にある感情に向き合い「これは本当に必要な不安か」と振り返る時間を設ける。
「なんとなく」ではなく、不安の中身を具体的に「見える化」する。瞑想して明らかになったものをノートに書き出すなどして、そのうえで不安を感じるものごとに関する情報を集め、対策や行動するための準備をしていけばいい。
不安に似た感情に「焦り」がある。焦りによって、落ち着きを失って慌ててしまい、具体的な解決法・対処法が思いつかなくなる。ただ、この感情は一概に悪いものではなく、ピンチに陥ったときに、ふだんの自分の力以上のものを発揮して、ピンチから脱出できることもある。
しかし、可能であればこの焦りという感情も手放していきたい。そのためには、あらかじめ優先順位を決めておこう。焦っていても、理性を働かせて、与えられた状況のなかでどのように行動するのがベストなのかを客観的に考えるようにしていけば、感じる焦りは和らいでいく。
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