無は、何もないことではない
物理学における「無」
「無」や「ない」という言葉は、「箱の中にリンゴがない」といったかたちで、日常生活の中に自然に入り込んでいる。リンゴがないということは、箱の中のリンゴの欠如を意味しているが、リンゴが無くても箱は残る。では、リンゴが入っていない箱は「無」なのか、あるいは箱という「存在」なのだろうか。これと同じ問いが、物理学でも立てられている。
箱の中にリンゴがない状態は、数学的には、「リンゴの個数がゼロである」と言える。ゼロは「無」と結びついているが、数学にはゼロより小さな負の数もあるため、ゼロが本当に「無」なのかということは、見方次第で変わってくる。
量子力学には、「真空状態には負のエネルギーがある」とする「ディラックの海」という考え方がある。負のエネルギーの存在は、一旦は否定されたものの、現在では、ある空間領域の中だけならば負のエネルギーが存在できることがわかっている。この考え方は、ホーキング博士が提唱したブラックホールの熱輻射や、量子エネルギーテレポーテーションで、重要な役目を果たしている。
古代ギリシアのパルメニデスは、真の無とは「それについて話すことも思考することもできない」ものだとした。実証科学の物理学でも、想像すら不可能な絶対的な無を語ることは空虚だとされる。物理学で語られる「無」とは、重力のように、私たちが普段その存在を生々しく感じているものが、実はなかったというようなことである。
相対性理論と重力

アインシュタインの一般相対性理論は、空間と時間を一体とした「時空」という存在を想定し、重力とは、時空が地球によって曲げられて生じるものだとした。私たちは重力を日常的に感じているし、重力を感じることで空間にも触れているということになる。だが一方で、一般相対性理論は、ある人には重力は存在するが、他の人にとっては存在しないとする考え方でもある。




















