【必読ポイント!】日本社会を支配する「空気」の存在
「空気を読まない」ことは反逆である

「唯一、一国で一つの文明圏(日本文明)を形成する」
サミュエル・ハンチントンは、著書『文明の衝突』の中で、日本をそう定義している。この概念と日本社会に蔓延る「空気」という概念を掛け合わせると、なぜこれほどまで「空気を読む」ことが重要視され、かつ逸脱者への攻撃が正当化されるのかという問いへの答えが見えてくる。
「空気を読む」とは、成文化されていない暗黙のルールを内在化させる行為である。複数の国家を含み、異なる背景を持つ人が集まる欧米のような文明圏では、成文化されたルールや倫理と、公正な罰則が必要とされる。一方、「一国一文明」の日本は「言わずもがな」が通じるハイコンテクスト文化だ。ほとんどのコミュニケーションは、共有された文脈が凝縮する「空気」の上に構築されている。
現代の日本社会では、「空気を読めないやつを攻撃しても良い」という論理が容認されることがある。異分子が「空気を読まない」ことは、共同体の暗黙の領域を破壊する行為であり、コミュニティに対する「反逆」と見なされる。
また、「空気がそうさせた」という決定であれば、個人が責任を負うことはない。しかし、空気を読まない存在が現れると、必然的に個人が責任を負わされることになる。この不快感と恐怖心が、「逸脱者への攻撃」というかたちで現れるのだ。さらに、「空気を読まない人=ルールの破壊者」というラベルを貼られると、攻撃は「正当な防衛」にすり替わる。
孤立した日本文明において、「空気」は集団を強く結びつける一方で、逸脱する者を許さない強力な同調圧力にもなるのである。
「空気」がつくる日本の意思決定サイクル
「空気」には、集団の意思決定を左右する支配力がある。その源は、3つの要素で構成されている。
まず、「責任の所在の不可視化」だ。そのときの「空気が決めたこと」であれば、失敗しても誰も責任を取らずに済む。逆に、失敗に対して健全なフィードバックを行った人間は、「空気」を否定した者として排除される。




















