机の前で時を過ごすことの多い生活をしていると、世の中から少し距離を置いているからこそ浮き彫りとなって見えてくる側面がある。仕事、学業、人間関係など、「いまを生きる人の多くは、『奴隷』になってしまっているのではないかということ」である。多少の困難はあっても、そこから抜け出し、みずらかの人生を取り戻せる可能性はある。そのためには、「自分の頭で考える」という「シンプルにして味わい深い営み」がポイントになるはずだ。
ここでいうところの「奴隷」は、時間のほとんどを仕事に拘束されたり、体力の限界までハードな仕事を課せられたりといった物理的な原因で、自分を見失っている人だけを指すわけではない。定刻に退勤できる人であっても、反論が許されないなどの環境要因により思考停止に陥り、主体的に考えることが億劫になっているようなら、やはり「奴隷」といえる。すなわち、「有形無形の外圧によって思考停止に立たされた人」が「奴隷」なのだ。
これは、友だち関係でも、恋愛、家庭などでも同様である。「少し意見したほうがみんなのためなんじゃないか」という疑問を抱いても、実際に口にして伝えるケースは少ない。それでもそこそこやっていけるから、黙したままにしてしまう。このような状態も思考停止であり、奴隷ということになる。
それで自分を損ねているのだとしたら、それは幸せとは呼べないのではなかろうか。「自分の人生を自分の足で踏みしめようとしたこと」、そこに人生の手ごたえがあるのではなかろうか。
奴隷のような状況に陥っていないか自覚的になり、それを制御する意思を持つ。そこに、「奴隷と非奴隷の分かれ目」がある。嫌な響きがつきまとう言葉ではあるが、「奴隷になってしまうかどうかは、つまるところ自己責任」と言うしかない。自身の命と生き方に関わるものなのだから、「相応の手間と覚悟」をかけるべきなのである。
人間は環境への適応能力が高いので、不満を感じていても、「なんとか今日もやり過ごせた」などと現状肯定に走りやすく、すぐに思考停止しがちだ。その奴隷の状態に気づいたとき、それがどうにもならないことであっても、なんとか克服したいと願うのであれば、やるべきことはひとつである。「いまいる場所から逃げること」だ。
3,400冊以上の要約が楽しめる