「私」と「世界」のあいまいな関係
失恋と哲学

「私たちの心は私たちのからだ」であるから、当然、その外側にも世界がある。しかし私たちは「心の外側にも内側にも無関心」である。
引っ越しのときに、実物を使って家具のレイアウトを決めていくのは大変だから、ミニチュアを使って検証する。哲学者のウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で説いた世界と言葉の関係は、それと同じようなものだという。「ミニチュアとしての言葉をいろんなやり方で配置して試してみることで、世界の在り方をあれこれ検証することができる」というわけだ。
失恋のような衝撃的な出来事があると、それまで過ごした時間の穴がぽっかりと空いて、自分自身が「内側からどんどん崩れていく」。人間としての揺るぎない成長を錯覚させてくれる哲学を志していても、フラれたショックで大学の講義に出席できなくなり、友だちと話すことで世界とのつながりを取り戻そうとする、「凡庸な試み」にしがみついてしまう。
同じ映画を観ていても泣くほど感動する人とそうでもない人がいる。その「身体」の重要性を独自に突きつめていったのが、メルロ=ポンティだ。『行動の構造』という本には、サッカーについての記述がある。グラウンドに描かれた線は、私たちがサッカーのルールに従うかぎり、サッカー専用の空間を生じさせる。そこでプレイをするうち、線は一定の効力を発揮する「対象」から、選手たちの動きを無意識的に発動させる「磁場」のように作用しはじめる。サッカーをする身体はグラウンドと一体化し、あるアクションへといざなわれる器官となっているのだ。
現象学とはこのように、「自分と世界のあいだに生じる経験を対象にした学問」である。私と世界のあいだに存在する、複雑で魅力的な関数を解き明かそうとする。それは、私たちが「つねになんらかの関心=問いとして世界に存在してしまっている」というメッセージを発している。この関心とはおおむね、バイアスや偏見と呼ばれるものだが、それがふだん意識されることはない。そんなことがあいまいなままでも、人は楽しんだり、やさしくしたり、哀しんだりしながら、世界と関わっている。
この本は、そうした「あいまいな仕方で、あいまいな世界に寄りかかって生きているその在り方」について、日々の経験をもとに考えたものである。それによって、「この世界が私にとって生きるに値するものだということを確認する試み」なのだ。
人の数だけ心がある?

浦沢直樹のマンガ『MONSTER』の登場人物であるロッソは、殺し屋稼業から足を洗い、地域に愛されるレストランの亭主となっていた。彼が「人を殺すことができなくなった日」とはどのようなものだったのか。
いつものようにスナイパーライフルのスコープをのぞき込んでいたロッソは、暗殺対象者がコーヒーに砂糖を入れはじめるのを目撃する。それが5杯目になったところで、自分の口のなかにまでいつも飲んでいるコーヒーの味が広がるのを感じた。美味しそうにそのコーヒーを飲む対象は、もはや「殺すことのできない『他者』」になっていた。








![無くならないミスの無くし方[決定版]](/_next/image?url=https%3A%2F%2Fstatic.flierinc.com%2Fsummary%2F4604_cover_150.jpg&w=3840&q=75)










