艱難、汝を玉にす
マラソン
著者は規律の厳しい旧制中学に通っていた。フルマラソンでなければマラソンとはいえないという考えから、母校では春と秋の数十日間、全校生徒が毎日走る「長距離練習」が行われていた。1年生は5キロから始まり、上級生になると10キロ。田畑の道を、黙々と走った。
先生も校長先生も一緒に走るため、生徒は不平を口にしなかった。それでも、多くの生徒が「なくなればいいのに」と思っていた。
ところが、この経験が体を強くするのに役立ったそうだ。虚弱だった生徒が風邪をひかなくなり、持病が治ったと話す先生がいたほどである。著者自身、戦争中は「弱兵の最たるもの」だったものの、強行軍では銃を担いで余裕をもって歩けた。高齢になってから四国の金刀比羅宮の石段を悠々と登れたのも、少年時代の鍛錬のたまものだと考えている。
こうした経験をもつ著者の目には、いまの小学生が学校のまわりを1、2周駆けるだけで「マラソン」と呼ぶことは、物足りなく映ってしまう。
「若いときの苦労は買ってでもせよ」。著者にとって、中学時代の全校マラソンは、この言葉を実感する原点の一つとなった。
苦労は買うもの

エスカレーター方式で進学できることは、それほどありがたいことなのだろうか。受験の苦労を何度も経験せずにすむようにすることが、本当にこどものためになるのか。著者はそう問いかける。




















