『土佐日記』
女性のふりをして書かれた日記
『土佐日記』は、平安時代中期の歌人・紀貫之による日記文学として広く知られている。しかし、紀貫之が日本初の勅撰和歌集『古今和歌集』の撰者であり、さらに同集の著名な序文であり日本初の文芸批評とされる「仮名序」を執筆した人物であることは、意外と知られていない。
彼はおよそ60歳から5年ほど京を離れ、「土佐守」という官職に就いていた。本作では土佐での政務や生活への言及はほとんどなく、任期を終えて土佐から京へ帰る船旅の様子が中心となっている。
冒頭では「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとして、するなり」(男も書く日記というものを、女の私も書いてみよう! そう思い立って、この日記を書くことにする)と書かれている。
なぜこのような書き出しなのか。
当時、日記は公的記録としての性格を持ち、男性が漢文で記すものとされていた。そのため、日記を平仮名で書くことの不自然さを避ける意図から、紀貫之は「土佐守(紀貫之)に仕える女房(女官)が記した旅日記」という形式を採用したと考えられる。
なぜ紀貫之は平仮名を使ったのか

当時、漢字は「真名」(まな)、平仮名は「女手」(おんなで)と呼ばれており、男性が親しむ文学といえば漢詩漢文であった。そのような状況下で、紀貫之はあえて平仮名を使い、女房のふりをして日記を書いた。なぜそのような方法を選んだのか。
真相は本人のみが知るところである。しかし、紀貫之以後、平仮名で記される女性の日記文学が大きく開花したのは確かだ。『土佐日記』の成立は935年頃とされ、その後『蜻蛉日記』や『和泉式部日記』、『紫式部日記』が成立した。女性たちが平仮名の文体を自在に扱うようになったことで、それらは公的記録とは異なる、和歌のような情緒を綴る文学として展開していった。この流れは『更級日記』や『讃岐典侍(さぬきのすけ)日記』へと連なっていく。
平仮名への強い思いは、彼の批評文にも見て取れる。紀貫之は『古今和歌集』撰者4名のうち最年少でありながら、代表して序文を担当している。その序文はまさに平仮名で記されたものであった。
『古今和歌集』には2つの序文が存在する。漢文による真名序と、平仮名による仮名序である。なぜ異なる文体の序文があるのか、その理由はわかっていない。ただし、真名序は別の人によるもので、仮名序は紀貫之によるものとする説が有力である。
当時、男性の散文はほぼ漢文で書かれていた。それにもかかわらず、なぜ紀貫之はあえて平仮名で序文を記したのか。
仮名序は紀貫之による和歌批評であり、和歌とは何か、漢詩といかに異なるかが論じられている。ここからは推測にすぎないが、紀貫之は、和歌を論じるには、漢文体よりも平仮名の文体こそがふさわしいと考えたのではないだろうか。紀行文という心情を綴るジャンルにおいて、漢文ではなく平仮名を選んだのと同様に。
『土佐日記』は長らく高い評価を受けてこなかった。しかし実際には「男性でありながら平仮名で日記を書く」という、当時としては極めて革新的な試みを成し遂げていたのである。しかもそれは、65歳を過ぎてからの挑戦であった。

















