本書の要点

  • 現代の情報環境下において、人は相互評価のゲームに取り込まれてしまい、その外部に出ることは容易ではない。

  • しかしこれは普遍的な問題である。「アラビアのロレンス」が砂漠に傾倒したのも外部への憧れからであったが、戦争と自ら作り上げたはずの虚像に精神をすり減らしていく。

  • 村上春樹は小説においてこの問題に取り組んだ作家である。市民ランナーとしても知られる村上春樹は、内部に潜ることでこの問題を解決しようとしたが、性搾取的な構造から抜け出すことはできなかった。

  • アラビアのロレンスと村上春樹の共通点は「走る」ことへのこだわりにある。しかし彼らがすべきだったのは、もっと「遅く」走ることだったのではないか。

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パンデミックからインフォデミックへ

閉じたネットワークと相互評価のゲーム

invincible_bulldog/gettyimages

新型コロナウイルスの強い影響下にある現在において、感染によって生命が奪われる危険と同等かあるいはそれ以上に深刻な被害を与えているのが、インターネット上の情報の独り歩きによる政治的・経済的な混乱である。WHOは、この情報の混乱を「インフォデミック」と名付け、各国に警戒を促している。人々はこの未知のウイルスについて検索し知識を得ることで不安を和らげようとしたが、そこで多くのデマが問題となった。フェイクニュースや陰謀論は、実際にワクチンの接種を妨げる結果になっている。今日の情報化社会はSNSを舞台にして、共感の獲得を競う相互評価のゲームに覆われている。そこでは、真に議論されるべき問題そのものについては議論されなくなった。こうした傾向は、コロナ・ショック以前から存在していた。政治からサブカルチャーまで、2010年代はSNSのプラットフォームが人々をサイバースペースの日常から実空間の非日常に「動員」していた時代だった。しかし、動員された先で、人々は事物そのものに触れることはできなかった。旅行に出かけたとしても、人々は目当てのスポットだけを巡り、目に入れたいものだけを目に入れる予定調和の活動になりがちだ。どこに動員されても、事物そのものよりも、事物を通じた人間とのコミュニケーションにばかり気を取られている。そしてコロナ・ショック下ではウイルスとの対峙から目をそらし、人間とばかりコミュニケーションを取っている。では、閉じた相互評価のネットワークから、どうすれば脱出できるのだろうか。

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アラビアのロレンス問題

ロレンスにとって「砂漠」とは何か

そのヒントを与えてくれるのが、「アラビアのロレンス」と呼ばれる人物だ。イギリスの裕福な家系の私生児という複雑な生まれを持つトーマス・エドワード・ロレンスは、オックスフォード大学を卒業した後、考古学者の卵として中東に滞在するうち、砂漠の魅力に魅入られていく。オスマン帝国(トルコ)からのアラブ独立戦争の折、イギリスはアラブに協力した。アラビア語と現地の事情に明るいロレンスは、軍人としてこの戦争に関わっていくことになる。ロレンスはアラブの非正規兵によるゲリラ戦を扇動・支援し、アラブ反乱に大きな影響を与え、イギリス人でありながらアラブの民族衣装に身を包んだ「アラビアのロレンス」を自己演出し、英雄視されていくようになる。しかしロレンスは戦争のなかでその精神をすり減らしていき、やがてスピードに取り憑かれ、オートバイの事故で命を落とした。では、果たしてロレンスは何と戦い、何に敗北したのだろうか。

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要約公開日 2023.04.13
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