鈴木修の半生
軍国少年が教師、銀行員を経てスズキへ
鈴木修は1930(昭和5)年1月30日、岐阜県益田郡下呂町(現在の下呂市)に生まれた。旧姓は松田。農家の四男坊で、子供の頃は腕白なガキ大将だった。地元の旧制中学に入学したときは、すでに戦争が始まっていた。救国の念に燃えていた修少年は、海軍飛行予科練習生になる。特攻隊への道であり、自分の命を国防に捧げる道を選んだのだ。
鈴木修は姫路の特攻隊基地で敗戦を迎えた。「なぜ、日本は負けたのか」「なぜ、神風は吹かなかったのか」という少年の問いに、答えられる大人はいなかった。
下呂の自宅に帰り、地元の名門校に復学した。成績優秀のため師範学校に進学し、教員資格を取得。正規の教員として東京の世田谷小学校の教師となった。
教師で稼いだお金で中央大学法学部に入学し、卒業後は地元の中央相互銀行(現在のあいち銀行)に入社した。
銀行員時代、スズキ第二代社長の鈴木俊三に見出され、鈴木家の婿養子になった。そして1958年4月、スズキに入社する。
失意のアメリカ赴任

鈴木修は、企画室、二輪の工程管理課、新工場建設プロジェクトの責任者、生産本部長、購買部長と順調に出世階段を上っていった。そして1963年11月、33歳のとき、ついに取締役に就任した。
66年1月、取締役輸出部長になった鈴木修は、USスズキ社長としてアナハイムに単身赴任。この地で、塗炭の苦しみを味わうことになる。
X6というオートバイを販売したところ、最初はよく売れた。しかし1年ほど経った頃に大半が故障し、クレームと返品が押し寄せてきたのである。アメリカ人はギアチェンジのやり方が乱暴なため、想定以上の負荷が歯車にかかり、歯が欠けていったのだ。無償で修理に応じた結果コストが嵩み、USスズキの赤字は膨んでいった。その額は10億円を超えた。


















