日本の教育は、文字の読み書き中心であり、書くことより読むことに重きが置かれてきた。中国大陸のことばを学んだ大昔、人々に教えられたのは文字と意味である。発音は勝手な読み方で、話すことははじめから、無視されていた。大学の講義も視覚中心で、教授が講義案の原稿を書き、読み上げ、学生がそれをノートに書き写す。
ことばのはたらきに、話し、聴くという機能があることは取り上げられることもなかった。日本語を沈黙の言語としてしまったのは、日本人自身である。
文字を書き、文章を読むのはあくまでことばの一部のはたらきであり、いわば「小さなコトバ」である。しかし、ことばの第一義的なはたらきは、話し、聴くものでなくてはならない。「話し、聴き、読み、書く」をすべてカバーするのが、「大きなコトバ」である。
日本語は、小さなコトバにかけては優れた文化を築いてきたが、大きなコトバを忘れていた。小さなコトバは、文学的表現を尊重し、文章がうまいことを評価した。一方で、大きなコトバは、話すコトバのことであり「意図を伝える」という伝達の役割に注目する。そして大きなコトバを身につけるには、「耳学問」が必要となる。
教育程度が高いほど、視覚知能を重視する傾向にあるようで、聴覚型の学習は、これまで視覚型の学習よりも低い地位に置かれてきた。入学試験なども、視覚知能のテストである。しかし、人間の知覚にとっては、読むことより聞くことの方が深い意味を伝えられるのではないだろうか。
「聡明」というのは、耳の知能と目の知能を並べた漢字だ。耳の「聡」を、目の「明」より先にしているのは注目に値する。近代文化が視覚を聴覚より上位にしているとすれば、それは問題である。
これまでは目の想像力によって生きてきた人間が多かった。だが、耳の知性を加えると、新しい世界が表れる。視覚優先の頭の使い方をしていた活字人間は、耳の活用で新人類になれるかもしれない。
人工知能が人間の知能を脅かし始めている時、ことばの伝達は最も新しい知的テーマである。目は、面白いことを見つけるのが上手でないが、耳は、面白いことに敏感である。人工知能はおそるべき勢いで進化しているが、どちらかと言えば視覚的、無機的である。聴覚は、それに比べて、ずっと有機的であるように思われる。人類が人工知能と競争すれば負けるのではないか。そう多くの知識人が心配しているが、音声言語であれば、AIに負けない可能性が高い。
アメリカに、「ひとつでは多すぎる」(One is too many)ということわざがあるという。大事なことはひとつではいけない。ひとつだと、それがダメだと全滅になる。いざというときにも代わりがあれば心強いという意味である。
日本人は個人中心にものを考えるが、1人で耳を鍛えることは不可能である。2人で話し合うと、悪い競争に走り、ぶつかり合い潰し合って、ゼロになることが少なくない。
ところが3人になると面白くなる。3人集まってやっと「文殊の知恵」を生み出せる。3人でしゃべり合っていると、思わぬ新しいことを掘り出せる。これには、めいめいの専門が違う必要があるようだ。
すべてのことばは、そのまま移動しない。必ず、意味を変えて相手に受け取られる。おしゃべりは、あたたかい知的な面白さを育てられ、その点で人工知能とは別の興味をつくり出すことが可能だ。乱談から発見や新しい思考が生まれることを実証できれば、古典的英知にまけない知恵が得られる。伝達の妙、まさにここにありと言える。
デモクラシー社会では、大きなコトバの力が大きい。当然、話し方を研究し、伝達効率を高める必要がある。ただ話がうまいのとは違う、新しいレトリックが求められる。
外交に当たる専門家は、衝突しても、火花を散らさない修辞学を考えた。外交辞令というレトリックである。国際外交に当たる人たちだけでなく、異文化、異民族との融和、親和をめざすには、新しい外交レトリックを身につけることが欠かせない。
3,400冊以上の要約が楽しめる