「存在する」という言葉が何を意味しているのかと問われても、私たちは全く何も答えることができない。だからこそ、「存在の意味への問いをあらためて設定する」必要がある。ところで、私たちは「存在」という表現を理解できていないことに、困惑さえしていない。したがってまずは「この問いの意味への了解」を目覚めさせることが求められる。そうして「『存在』の意味への問い」を具体化することが、本書の目的とするところだ。それを可能にする地平として、時間を解釈することを目標とする。
プラトンとアリストテレスが始めた探究はヘーゲルの『論理学』にいたるまで続けられたが、存在への問いは取るに足らないものとなってしまった。「存在」は「もっとも普遍的で、もっとも空虚な概念」であるため、定義不能だとされる。むしろこの概念はどのような定義も必要としないし、この概念が何を意味しているのかは自明であると思われてきた。それを問えば逆にとがめられるほどである。
しかし、存在の意味への問いが設定されなければならない。そのためには、存在の意味が、私たちにとって手の届く形になっている必要がある。私たちは存在の意味を知らないが、「空が青くある」などというように、すでに存在のことをわかったつもりであること、すなわち「存在了解」をもっている。存在の意味への問いはそこから生まれる。
「空が青くある」の「ある」が何を指示しているのか、私たちは概念的に確定できているわけではなく、その地平すら見えていない。しかし漠然として平均的な存在了解があることは事実であり、この現象は解明されなくてはならない。
ハイデガーは、存在の問いを問う存在者としての私たちを、「現存在」という術語で表現する。
現存在は「その存在において規定」されなければならないが、それにもとづいて存在への問いを設定すると答えがすでに前提とされていることになり、あきらかな循環に陥ってしまうと思われるかもしれない。しかし、あらゆる存在論はたしかに「存在」が「前提とされて」きた。
存在を「前提とすること」には、存在者が存在を見やることであらかじめ分節化される側面があり、それは平均的な存在了解から生じる。したがって、「存在了解は現存在それ自身の本質」に属しているのだ。存在への問いに答えるために重要なのは、「根拠を提示しつつ発掘すること」なのである。
存在とは、そのときそのときの何らかの存在者の存在のことだ。存在者たちは歴史、自然、空間、言語といった様々な領域を発掘し、それぞれ対応する学問的探究における対象となる。
学問の本来の働きは、根本概念の改訂をくわだてることにある。厳密な学問に見える数学は形式主義と直観主義の対立で、物理学においても相対性理論の誕生によって、その基礎が揺るがされている。
ある学問の領域は存在者自身から獲得されるべきであり、その存在者の存在の根元体制によって解釈される。そうして諸学問を存在論的に問うことは、実証的な研究が存在について問うことよりも根源的である。「『存在』という表現でそもそもいったいなにを意味しているのか」にかかわる了解が先行して必要なのだ。
したがって存在の問いは、諸学問の基底となる存在論それ自体を可能とすること、すなわち、存在の意味を充分に明瞭にすることを目指すのである。
現存在としての人間は、「他の存在者からきわだっている」。それは、自分の存在を自身で理解し、自身を問題としているためである。現存在は存在を理解している様式で、つまり存在論的に存在しているのだ。
現存在が常に何らかの形で関わっている存在自身を、実存と名付ける。現存在は常に自らの実存、すなわち自分自身であるか、自分自身でないかという可能性の観点から自身を理解している。実存は、現存在自身がその可能性をつかみ損ねるかどうかによってのみ決定される。
存在論的な構造への問いは、実存的なあり方の分析であり、現存在の存在的なあり方に即して描き出される。
現存在は学問的探究を通して、現存在(人間)以外の存在にも関係する。
3,400冊以上の要約が楽しめる