ローカルな国家からグローバルな市場へ、という常套句は、前世紀末から世界中の経済学者や哲学者が口を揃えて述べてきたものである。一方で、その進行は想定よりずっと速く、トランプ大統領の誕生や、ブレグジットといった象徴的な現象として現れてきた。
イギリスのジャーナリストであるデイビッド・グッドハートは、世界は「Anywhere」な人々と「Somewhere」な人々に二分されていると指摘した。「Anywhere」な「どこでも」生きていける人々とは、今日のグローバルな情報産業や金融業のプレイヤー、あるいはクリエイティブ・クラスのことだ。彼らの考える「社会」とは、世界市民的な全人類が参加するグローバルな市場であり、自身の仕事を通じてその社会にコミットしている。一方、「Somewhere」な「どこかで」しか生きられない人々は、製造業を中心とした相対的に旧い産業に従事し、ローカルな国民国家の一員としての意識を持っている。グッドハートによれば、たとえばトランプの当選やブレグジットの可決は、「Somewhere」な人々の反乱であり、グローバル化や情報化といった大きな流れに対するアレルギー反応であるという。
「Somewhere」な人々は、社会にコミットする感覚を得るために、政治的なアプローチに夢中になる。しかしそれは、正確には政治に関与することでの自己実現ではなく、自分が世界に素手で触れているという手触りである。すでに存在している声に賛否を示せば、それが事実であるかどうかに関係なく、驚くほど簡単に承認を獲得できる。これはプレイヤーが相互に評価し合い承認を交換するゲームとして捉えることができる。そして「Anywhere」な人々は、こうした「Somewhere」な人々のプレイする相互評価のゲームによって収益を上げるインターネット上のプラットフォーム――FacebookやX(twitter)など――を作り上げる。そして「Anywhere」な人々もまた、資本主義のゲームの中で他のプレイヤーから評価されるべくこうしたプラットフォームを運用しているのだから、同じメカニズムを持つ相互評価のゲームをプレイしていることになる。
こうしたゲームに没頭すればするほど、プラットフォーム内でゲームの最適解に到達する人々の社会的身体は画一化し、人間から多様性を奪っていく。そこにあるのは、誰もが承認を獲得するために「敵」と見なしたものを無批判に攻撃し続けることで、効率的に承認を獲得していくディストピアなのだ。
では、こうした構造からどのように脱出することができるのだろう? ここではそれを「庭」だと考えたい。
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