文学とは、国語とは
国語にとっての文学

「文学とはなんだと思いますか?」
著者が中学生から大人までにアンケートをとったところ、「難しそう」という答えが多かったなか、「文学」と「国語」を結びつけた回答も少なくなかった。多くの人にとって、「文学」は「国語」の延長線上にある。これには、文学ファンは違和感を覚えることだろう。文学ファンには「文学」と「国語」はまるで違うものだと考える人が多いからだ。
本書は「文学」と「国語」についての本だが、「文学」の精神や意義を深堀するものでも、文芸批評家の提示するような「文学」について考えようとするものでもない。本書における「文学」は、小説や詩といった言語表現に必ずしも慣れ親しんでいない人の「文学」のありかたや、中学生がアンケートで答えたようなありかたも含んだものである。
こうした意味で文学を捉えなおしたとき「学校教育」における「国語」が重要なものとして見出される。「文学」という言葉が広く使われているのは「国語」が「文学」を扱っているからだ。活字から遠ざかっている人たちは「国語」を通じて「文学」のイメージを形成しているのである。これは、「文学とはなにか」を追求している「文芸批評」が見過ごしがちな視点だといえるだろう。
多くの人間にとって「文学」は「国語」の延長線上にある。だからここでは「国語にとって文学とはなにか」、あるいは「文学にとって国語とはなにか」を問うべきなのだ。
本書はこうした問いを通して、文学と国語のありかたを再設定することを目指している。
【必読ポイント!】 「国語」と「文学」
なぜ国語は批判されるのか?
国語は真正面から「文学とはなにか」を問うたりはしないが、「文学」という言葉を多く用いてはいる。2022年度からの新学習指導要領では高等学校に「文学国語」という科目が設置され、国語における「文学」議論は盛り上がりをみせた。
文芸批評家の福田和也は『作家の値うち』で、文学を「読者の了解」や「読者の通念」を積極的に遠ざけ裏切ろうとするものとして捉えている。福田和也が主張する「文学」と、学校教育における「国語」は相性が悪い。学校は社会的「通念」を教える場だからだ。実際、「文学」の尖った自由さを強調する際には、よく国語を引き合いに出される。


















