生きものは寿命を全うできないことがもっとも不幸である。したがって著者は、「死からの距離が保てている状態」を生物学的な「幸せ」と定義する。
この距離を増大させるのは、生存本能と生殖本能だ。それは、子孫を残すことが「目的」であるということを意味しない。生物は変化と選択の連続において偶然誕生したにすぎず、現在存在する個体は、「その祖先の全てが生き、そして生殖に成功したから」存在している。死ぬことも、ほかの個体が生き延びて進化するための「原動力」となってきた。それゆえ、生存本能と生殖本能こそが、生物の生きるモチベーション、「幸せ」を支えるものなのである。
ここで生存本能とは、「誰からも教わらずに生きるためにとる必須の行動」を指す。進化の過程で、生き残ろうとする性質の強いものが選択され遺伝子に刻みこまれた。多様な生物に共通しているのは、「生きるために食うこと(エネルギーを得ること)」と「他の動物から食われないこと(危険から遠ざかること)」である。これに向けた行動、形態、性質の変化が、「死からの距離」を大きくする。
一方で生殖本能は、個体でみると、生きるために必須のものではない。ただ、これがなければ、結果としての生命の連続性の維持にはつながらなかった。すなわち、「『種』としての次世代の生き残り」を支えるものなのだ。
この2つの本能は密接に関係している。ヒト以外の野生の哺乳動物に老後はなく、生殖・子育てができるうちは死なないようにできている。生殖・子育て期間の親の命は、「進化できっちり守られている『死からの免罪符』」といえよう。私たちヒトも、孫の子育てサポート期間にあたる50代までは「がん」になることもほとんどない。70代でも孫の世話をしている人はいるが、それが長寿化の原因になっているともいわれている。ほかにもこのような例はたくさんある。
したがって生物が生きているのは、生存本能と生殖本能に根ざした「幸せ」がそこにある、すなわち「『死からの距離』が保てているから」なのだ。
ヒトの場合、「死からの距離」という観点で見た「幸せ」のあり方は少し複雑になる。
ヒトの身体的な「幸せ」を最大化するためには、寝食をしっかりとるなどの健康的な生活を送ることが当たり前の手段だ。それが災害などでできなくなってしまった途端、死からの距離が一気に縮まる。ただ、現代の先進国に暮らす多くのヒトは、必要最小限の衣食住にとどまらず、より美味しい食事、清潔感のあるふかふかのベッド、プライバシーの守れるトイレといった快適さがないと満足できない。どこまでも「ベター(better)」なものを求め、そこに幸せを見つける。
このベター志向は、生物学的に本能といえる。食べること自体は「幸せ」であり、より美味しいものを食べれば快楽も高まる。快楽は脳内の報酬系の神経伝達物質の分泌を増やし、食へのモチベーションを掻きたて、生存本能を実行するうえでのサポーターとなるのだ。
しかし、「『幸せ』の本質は食べて栄養を得ること」なのに、知性と創造性を手にしたヒトは、快楽中毒になってしまう。現状に飽き足らなくなり、快楽に対するハードルを上げて「幸せ」を減らすことになる。これは、より便利なものを求めるテクノロジーとの向き合い方にもいえる。土木工事のために発明されたダイナマイトが戦争に使われるようになったように、道具の使い方は遺伝子に刻まれておらず、勝手にアレンジしてしまう。
ほかの動物よりも身体能力の点では優れていないヒトは、集団の結束力とテクノロジー、すなわち協調性やコミュ力、技術力といった「安全と食べ物を獲得できる『術』」を持つ者が選択的に生き残ってきた。そして、五感、特に視覚と味覚に優れており、聴覚の聞き分け能力や手先の触覚も抜群だ。この「違いのわかる能力」がベターなものを生み出してきたのである。
社会性の強いヒトは集団でしか生きられない。集団内での自身の評価や貢献度、それにもとづく「分け前」を気にする。その貢献度に応じた公平な分配は、「社会性の動物であるヒトの生きるモチベーション、つまり『幸せ』を達成するための必須な要素になってきた」。だからこそ、他人の取り分との相対的な評価に非常に敏感になった。ほかの動物にとってはどうでもいいような微々たる差を気にして、少しでも多くの分け前を得ようとしてきた。
したがって、集団のなかで周囲より少しでも評価が高く、そこにポジショニングできていることが「幸せ」になる重要な手段となった。逆に、相対的な正当な評価が得にくい、また比べる相手が多すぎる現代人は「幸せ」な状態になりにくいのだ。
以上でみてきたように、社会性の生きものであるヒトは、生存本能だけでなく、コミュニティ(共同体)を構築し、そこに貢献することが、死からの距離を保つために重要となった。
集団内での相対評価を上げ、集団に適応するために、ヒトは次の3つを行なう。
3,400冊以上の要約が楽しめる