物語批判とは何か
他人の物語化がもたらすもの

選挙における「候補者の物語」に顕著なように、現実の物語があちこちで語られている。そうして物語化が重視される背景を説明するものとして、本書は3つの仮説を挙げる。
1つは、「私たちが他人を理解したいと願い、他人に理解されたいと願うから」である。物語的な語りによって、自分や他人が起こした過去の行動を理解可能にし、未来に起こす行動の予測可能性を高められる。また物語は「自己紹介」の手段としても使われ、その語りのなかで他者と親密になるきっかけを得ようとする。
2つめは、「私たちが他人と同じ気持ちになりたいと願い、他人にも、自分と同じ気持ちになってほしいと願うから」である。物語的な語りによる共感や反感は、「意図した対象への意図した情動を引き起こす」。
3つめは、「自分が誰であるかをはっきりさせたいと私たちが願うから」である。自分も他人もキャラクター化して、自身のユニークな人生、自分らしさを得ようとしている。
これらの願いはまっすぐなものだ。しかし、馴染みある物語が他人を抑圧してしまうことも、誰かの情動へのチューニングによって情動を理解する可能性を失ってしまうことも、自分のアイデンティティを硬直化させてしまうこともある。
ここからは、これらの「理解の願い」「情動のリンクの願い」「自己像の願い」をよりよい方向へとつなぐために、どのように物語を批判すべきなのかを考える。
【必読ポイント!】 自己理解の語り
改訂排除性
自分の話、それも来歴の話をすることで、私たちは「理解」を目指している。自己語りによって互いの信念や情動が理解できると思っている。
自分語りの背景には、「過去をどのような観点や枠組みで再構築するかという、いわば歴史的・歴史学的な営み」がある。歴史哲学的な観点でみると、自己語りとは「常に何らかの枠組みのもとで語り直す行為」なのである。そうして現在の私たちが語ることで、過去は更新され、「理解」されるようになる。その時点で、過去は体験したままの、記録映像のようなものではなくなり、「常に新たな解釈に開かれている」。とはいえ、他者との関わりのなかで生きる以上、モノや他者の語りとの齟齬を訂正しながら、「より適切な語り」を探し、共通の過去を共有しなくてはならない。そうして、「私たち」による時間的な公共物としての過去ができあがるのだ。
こうした「過去制作」をプロフェッショナルに行なっているのが歴史学者だが、日常的な自己語りは、歴史学者による歴史的語りと2つの点で大きく異なる。




















